NBC被爆80年シリーズ企画「銘板が伝える8.9」。第10回は、爆心地からわずか800メートルの"上野の丘"にあった県立長崎工業学校。学校にいた生徒や教職員のほとんどが死亡しました。

爆心地から北東におよそ800メートル。

長崎市上野町の小高い丘の上。現在、カトリック系の長崎南山中学・高校がある場所に建っていたのが県立長崎工業学校です。

被爆の日、学校にいた教職員と生徒のほとんどが死亡したため、学校の被爆状況の記録は多く残されていません。
昭和15年建築の木造2階建て2棟と、平屋建て3棟の校舎はすべて倒壊、全焼。井上弥人校長以下教職員22人、生徒199人が、学校や動員先の工場、自宅などで死亡したとされています。

原爆が投下された時、校舎の北東側ではおよそ40人の生徒が防空壕掘りで汗を流していました。

学校で被爆した上川千八郎さん:
「校舎が崩れてきまして、私はその校舎の下敷きになりました。光がちょっと出てきましたもんですからなんとかして抜け出ることができるんじゃなかろうかという判断したわけですね。校舎の材木の骨組みの中を通り抜けて屋外に出た」(1985年取材)
当時、教頭だった本田輝政さんが学校に戻ったのは、原爆投下から6時間後の午後5時頃でした。
当時の教頭・本田輝政さん:
「残っとるのは建物の基礎ばかりでございますからね。その基礎の中に転々としてよく見ると人が死んどんなってことなんですよね。そのイモ畑がございましてね。横の方にそこにその人がおるからよう見たらね。それは校長なんですよねほとんども校長も蟲の息だった」(1985年取材)
併設されていた国立長崎女子技術指導員養成所(生徒約20人)と長崎盲唖学校の分校にいた生徒らも、全員焼死したとみられています。
学校のありし日の姿を銘板だけが伝え続けています。
