遅咲きの巨匠・やなせたかし氏とアンパンマン誕生前夜
野村:
やなせたかしさんとはどんな人物だったのでしょうか?
中山:
やなせさんはいわゆる遅咲きの天才でした。1919年生まれで、生涯本当に色々なことがあったなかで、1988年、69歳のときにアニメ化によって急に花開きます。
野村:
高齢になられてからだったんですね。それまではどういったことをされていた方なんですか?
中山:
戦争も体験され、いわゆる「マルチクリエイター」と呼べる方でした。今でいう糸井重里さんのような、コピーライトもするし、イラストも描くし、アニメも作るという。50~60年代もすごく活躍されていて、ラジオ作家もやっていたんです。
あの頃のラジオ作家の仕事量はすごいんですよね。3週間分、つまり21本分を1日で収録するというようなことをやなせさんはされていたそうです。
野村:
無理じゃないですか、それって。
中山:
そうなんです。21回分の脚本のアイデアをわーっと出して書くというのをやられていたと。60年代後半ぐらい、そのラジオ作家の時に、アンパンマンの元になるネタや『やさしいライオン』などの作品を作られていました。
ただ、色々なことを手がけていましたが、1つの代表作というのがなかなかありませんでした。
野村:
主要作品がなかったわけですね。
中山:
そうなんです。この「主要作品」を手伝ったというのが、これまた巨匠の引き合いになりますが、手塚治虫さんとサンリオを創業した辻信太郎さんです。
やなせさんは、アンパンマンでもものすごい数のキャラクターを作った人なので、色々なバラエティのあるキャラクターを作りたいという思いがあったようです。そこで、手塚治虫さんが『千夜一夜物語』というアニメを作る時に、「うちのキャラクターデザインをやってくれないか」と依頼したんです。これが結構当たりまして、1968~69年で、当時としては2億、3億の興行収入で、アニメとしては成功しました。
手塚治虫さんが、ご褒美というか報酬というか、感謝の気持ちを込めて「僕のポケットマネーで何でもしていいから、何がしたいですか」と聞いたら、やなせさんは「アニメを作りたい」となったそうです。それで、絵本で売れていた『やさしいライオン』をアニメ化したことが、やなせさんのアニメデビュー作です。
そしてサンリオ創業者の辻信太郎さんが、ハローキティなどを手がけるなかで、水森亜土さんなど有名なイラストレーターと組んでさまざまなキャラクターグッズを作っていた時に、やなせさんを見つけました。
「アンパンマン」は、フレーベル館が1973年に出版するまでは、実はサンリオで出版していた時期もありました。そのサンリオで、やなせさんは『詩とメルヘン』という雑誌を編集長として立ち上げることになり、自分の好きなものを出せるという環境にありました。














