戦後80年プロジェクト「つなぐ、つながる」です。長崎県波佐見町に今も残るアメリカ軍機の銃弾の痕。今年公開された映像から、銃撃は「ついで」の攻撃だった疑いが浮上しています。

弾丸が鉄の雨となって目標を襲います。場所は長崎県波佐見町。1945年7月31日にあった「波佐見空襲」です。弾が命中し、土煙を上げているのは学校の校舎。そして、横に大きな木がある建物。

銀杏屋商店 松本德義 会長
「銃のあとはそこの下の穴と、向こうのそこと、あそこと3か所ですね」

波佐見町の銀杏屋商店。店の横の銀杏の木からその名がつきました。

陶器でできた建物の外壁には穴が開いています。波佐見空襲の弾丸の痕です。

アメリカ軍が撮影した80年前の映像に、壁に穴をあけた銃撃の瞬間が記録されていました。銀杏屋の建物と、横の銀杏の木も確認できます。

映像を見てもらいました。

銃撃後の状況を見た 堀池直さん(96)
「これが銀杏屋?」

空襲直後に現場を見た堀池直さん。ここが何故銃撃されたのか?80年間、疑問に思っていました。

堀池直さん
「びっくりしました。あの時の傷跡だったんだなっていうのはいつも思ってきておりました」

波佐見空襲では女子学生1人が亡くなっています。永嶋道子さん(当時15)。学徒動員で佐賀県武雄市から波佐見町に来ていました。永嶋さんが銃撃をうけたのは、宿舎だった学校の建物にいたときでした。

永嶋道子さんの遺族、弟の文雄さんです。

文雄さん
「通知を受けて、両親が波佐見に飛んで行った。うつぶせになって本を読みよったら、ここ(肩)から(弾が)入ってお尻に抜けた」

娘を亡くした父・勇雄さんが日記に思いをつづっていました。

「可哀想にも不運にも、戦争の犠牲となったことを知った。云い様も無い此の悲しみと怒り、何処の誰に訴える可きか。唯声を呑むのみであった」

波佐見町へのアメリカ軍の攻撃。映像を公開した豊の国宇佐市塾の織田祐輔さんは、基地に戻る途中での「ついで」の攻撃だったと分析しています。

豊の国宇佐市塾 織田祐輔さん
「その飛行ルート上にたまたま波佐見があり、たまたま波佐見にこういう風な目立つ倉庫ですとか学校の校舎、もう手当たり次第に、この前後の映像見ると本当に手あたり次第に銃撃しています」

何故、故郷は攻撃されたのか?何故、命は奪われたのか?映像が、わが町の戦争を伝えます。