詳細な記録を残した理由ー

調 来助 教授は、爆心地から約700メートル、長崎市坂本町の長崎医科大学附属医院内にあった自身の部屋で被爆した。

調 来助 さんの証言(1969年当時)「天井が私の上に落ちてきたんです。幸いにその天井はテックス張りの天井で軽い天井だったもんですから、怪我もなくて。もういいだろうと思って ちょっと立ち上がってみたんです。そしたらもう真っ暗ですね。何が何だか、真の闇よりもっと暗いように思いました。これはいけないと思って またじっとしゃがんだんですが、その頃、ザーッという音がする。原爆で下から吹き上げたものが落ちてきた音だったろうと思います」

なんとか外に出ることができた調教授は、けが人の救助に追われる。

そのような中、被害の状況や、自身の行動、救護活動などについて詳細に記録していた。

調 来助さんの孫・調 漸 長崎大学 名誉教授「被爆の影響で、結構 体調が悪い中で書いていますよね。執念みたいな感じだよね」

長崎大学の調 漸 名誉教授。 調 来助さんの孫で、同じく医師だ。

研修医だった頃、祖父が被爆前後の詳細な記録を残したわけを聞いていた。

来助さんは、東京帝国大学の医学生だった1923年、関東大震災にも遭遇していたのだ。

調 漸 長崎大学 名誉教授「『後から思い出そうとしても正確に思い出せない自分に気づいて、ちゃんとやっぱり記録に残さないといけないと思った』って言うんですよね。早い時期に 実際に目で見たことや 調査もそうだと思いますけど、形にして残しておくことが大事だと思ったんじゃないですかね」