
1945年7月4日未明、高知市上空にアメリカ軍のB29爆撃機が飛来し、多数の焼夷弾を投下した「高知大空襲」。大勢の人が寝ていた夜中に、まちは火の海に包まれ、400人以上が犠牲となりました。
入学直前のタイミングで「高知大空襲」に見舞われた松﨑さんは、当時のことを鮮明に覚えていました。
◆松﨑淳子さん
「ちょうどその日の晩、7月4日が『高知大空襲』で…。とにかく、みんなで逃げた。『他人の足を踏んで逃げた』という、その時の『足を踏んだ感覚』が今でも残っていて、記憶にある」
一夜で大勢の人が犠牲になった「高知大空襲」。ただ、松﨑さんは逃げ切って無事でした。この空襲で、高知市内で開校予定だった「高知女子医専」の校舎が焼失し、学校は終戦直前の1945年8月8日、佐川町に場所を変えて開校しました。
松崎さんは「高知女子医専」1期生として入学しましたが、その1週間後の8月15日に終戦を迎えました。

◆松﨑淳子さん
「みんなが講堂に集められて、ラジオから天皇陛下のお声が聞こえ始めて…」
1945年8月15日正午、昭和天皇が日本の敗戦を告げる、いわゆる「玉音放送」がラジオで流れました。「耐えがたきを耐え、忍びがたきを忍び…」の文言で知られるラジオ放送は、難解な言葉が並びましたが、松﨑さんたちは「敗戦」の事実に打ちひしがれたといいます。