4月29日は「昭和の日」、そして、今年は昭和が始まってから100年の年でもあります。こちらは昭和の宮崎市中心市街地の様子です。
県民は昭和の宮崎についてどのくらい知っているのでしょうか。

(三浦功将記者)「多くの人や車が行き交うデパート前交差点。昔はこんな風にロータリーだったこと、皆さんはご存知だったでしょうか?」

こちらは昭和36年の橘通りを空から撮影した映像です。

今は多くの車が行き交うデパート前交差点ですが、当時は直径35メートルの緑地帯フェニックスロータリーがあり、市民に親しまれてきました。

県民に当時の写真を見てもらうと。

(高校生)「東京?」(三浦)「東京じゃないんですよ。これ宮崎なんですよ」(高校生)「え~!すごいっすね!」

「こんなの今やったら大変そうですよね!フフフ!車通りも全然昔と違うでしょうし…ちゃんと見たことなかったのでビックリした」

妻「これ橘百貨店や!橘百貨店、昔の!」
夫「懐かしいですがね。そこは瀬戸山金物店やったです。」
妻「瀬尾!瀬尾!」
夫「瀬尾か!瀬尾金物店」

さらに、少し南に行った橘橋の目の前にある宮崎市役所前の交差点も同じようにロータリーが整備されていました。

(子ども)「大淀川!」
(三浦)「大淀川写っているね!」
「意外とこっち(昔)の方が近代的なオシャレなイメージがある」

一方、当時を知る昭和世代は。

「山形屋前の交差点はこんな感じで、ロータリーで真ん中に警察官が立っていたのを覚えている。橘百貨店があって、屋上に観覧車とかあって乗った覚えがある」

この4年後の昭和40年に宮崎市のフェニックスロータリーは交通混雑解消のため撤去され、4つの信号機が設置されたということです。

一方、こちらは昭和30年代の宮崎市の青空市場。

このころは、まだスーパーマーケットもなく、活気にあふれていました。
(県民)「ほ~!ちょっと今では分からないくらい活気がありますね!」
(当時を知る人)「人がすごく多くてここら辺は全然違った。いろんなところに(店が)入っていて、3坪くらいのところにお豆腐屋さん、お花屋さん、お米屋さんとかいっぱいあって懐かしい。子どものとき、(母に)よく手を引っ張っられて連れて来られた」

今年2月には宮崎市が建物解体の代執行に踏み切った青空ショッピングセンター。
近隣の飲食店関係者は跡地の活用に期待を寄せています。

(飲食店関係者)「昔の情緒を残しながら、物を作ってくれるとうれしい」

またこちらは昭和37年の宮崎駅。当時は、1万人近い中学生が県外に就職していたため、年末年始の駅はUターンラッシュで大混雑していたようです。

(学生)「パーマをしている人が多い。昭和の流行が宮崎でもあったんだなと思います」「電光掲示板とか時刻表が流れるあれがないので、不便そうだな思います」
「今と違って、全然違うなと思います。人の多さもそうだけど、待つところが狭いからこんなにぎゅうぎゅうなのかなと思います」

昭和世代からは駅にまつわる思い出も…。

(夫婦)「昔の駅っていうのは、伝言板とかありまして、どこどこに待ち合わせするとかですね、そういうところでコミュニケーションとってたと思うんですけど、そんなのもやってほしいなと思ったり」

昭和から100年。時代とともに変化した宮崎の街はこれからどんなふうに変わっていくのでしょうか。