
1947年、父親はハンセン病の療養所・奄美和光園に強制収容されました。しかし、まだ幼い赤塚さんは、父親がどこに連れていかれたのか、わかりませんでした。
(赤塚興一さん)「そのうちに夜な夜な帰ってくるようになったんです。有刺鉄線が張られてたんですよ、和光園は出られないように。服なんか破ってくるわけですよね。うちのお袋が破れたやつを縫ったりするのを目についてるんですよ。そのうちに、ああ和光園におるんだなあって感覚が」

(赤塚興一さん)「(小学校の頃)友達から、「コジキ」と言われたんですよ。島ではね、ハンセン病のことをコジキって言いおったんです、その頃は」

「同窓生がほとんど遊んでくれなかった。それが一つの私のトラウマみたいな形。ずーっと引っ張って」
それから、父親のことを隠すようにして生きてきました。