牧師の父「苦しまずに死ねるよう祈りなさい」

法廷では、金本暁さんが、池永修弁護士からの質問に答えました。法廷で録音はできないので、私は一生懸命にメモを取りました。
・私は3人兄弟の真ん中で、福島県いわき市で暮らしていました。住んでいたのは、父が牧師をしていた教会兼自宅でした。当時中学1年生だった私は、吹奏楽部に所属していました。発災当日は卒業式で演奏のため学校に行き、帰宅して昼ご飯を食べてゆっくりしていました。家には父と兄と私の3人がいて、私はテレビゲームをしていました。
・地震が起きた時、最初はよくある地震かと思ったのですが、揺れはどんどん強くなる一方でした。父が1階に降りてきて、「今すぐ外に出なさい」と言いましたので、外の道路の上に出ました。ものすごく揺れが大きくて、道に座って収まるのを待っていました。家の中はぐちゃぐちゃで、片づけに追われました。断水し、ガスも止まりました。自衛隊の給水車が来るようになると、兄とともにバケツを持ってその前に並んだり、用水路にトイレの水を汲みに行ったりしました。
・3月12日に、福島第一原発が爆発する事故が起きました。父に「事故があったらしい」と聞いて知りました。父は焦っているようで、ただただ「大変なことが起きているらしい」と思いました。その時に印象的だった言葉があります。父から、「命の危険もあるんじゃないか、とテレビでも言っている。3人兄妹、もし死ぬなら苦しまずに死ねるよう祈りなさい」と言われたのです。私は、原発がどのくらい危ないか、知りませんでした。そんなに大変な危険なことなんだ、と漠然と感じました。
・両親の説明では、最初は一時避難という感じで、「とりあえず違う所に移動しよう」ということでした。私は「4月の新学期にはいわきに帰ってくるのだろう」と思いましたが、実際はそうではありませんでした。
なぜ自分がこんな環境に

続いて、九州に来てからの証言です。こちらでも教会の牧師となったお父さんの決断を、どうしても認められない時期もあったそうです。
・福岡県では久留米市の県営住宅を開放してくれ、すぐに入れてもらいました。両親が外出から帰って、突然「こっちで生活することにしたから」と言い、そこで初めて「いわきに戻れないんだ」と分かりました。ただただショックでしたが、反論することはありませんでした。高校3年生になる兄は「自分だけでも戻りたい」と強く反発しました。妹はシクシクと泣いていました。私は小学生から吹奏楽部に入っていて、同じ仲間と行きたい高校がありましたが、それができなくなってしまいました。
・久留米では、吹奏楽はしませんでした。同じ仲間とずっとやってきたので、一から頑張るモチベーションがなくて、入部できませんでした。中学校にはあまり馴染めませんでした。鳥栖の高校では吹奏楽部を半年で辞めてしまいました。「なんで自分だけ知らないところでやっているのだろう」と考えていたので、団員や先生ともあまりうまくいきませんでした。
・甲状腺検査で、嚢胞(のうほう)ができている、と言われました。大きくなっているものもあったそうです。兄妹や親には結果だけは言いましたが、踏み込んだ話はしてきませんでした。
・(両親の決断に対して)当時は子供だったので、「なんで自分だけ」と思っていました。しかし父は、究極の選択をしなければならない状況だったので、福岡を選択したのです。福島には信者がいます。教会を去る厳しさ、辛さは、大人になった今ではよく分かります。
・(家族のきずなが引き裂かれて、東電への思いは)原発事故がなければ、両親が苦しい決断を迫られることもなかったのです。二度と事故は起こしてはならないです。福島では、事故が起きてしまって、苦しい判断を迫られた人がいるということを覚えていてほしいと思います。

子供の時に避難を体験して、どんなことを考えたのか、を思い出しながら率直に話をしたと思います。この種の裁判で、国の責任が認められないケースが増えています。しかし、避難した人の責任ではないですよね。では、東電だけの責任か。そうとも私は思えなくて、訴えには十分根拠があるのではないか、と証言を聞きながら思っていました。