今年8月の舞台「WAR BRIDE」で主演・桂子を演じる奈緒が、桂子の物語をさらに深掘りすべく、改めて問うた。
取材は奈緒をインタビュアーとし、ディレクターで甥である私、川嶋がカメラを回した。

インタビューのその日、久しぶりに会った桂子はとても元気だった。
私には「まだまだ元気でいたいわ」と優しい言い方ではあったが力強く話した。
以下、奈緒が聞き取った、桂子のこれまでの歩みだ。
奈緒:「私の祖父は戦争に行って帰ってきた。祖父は1人で生きて帰ってきた事に罪悪感を抱えていて、話そうとしなかった。今、大人になってみると祖父は本当は話をしたかったんじゃないかって思ったんです」
桂子:「そうかもしれないね」
奈緒:「私は、あの時に聞けなかった後悔があった。だから30歳になるこのタイミングで、今回この話を頂いて桂子さんに話を聞けることをすごく光栄に思っています」
奈緒の祖父は佐世保の海軍で調理師をしていたという。そんな奈緒に桂子は優しく語り始めた。
桂子:「私は1951年に初めてオハイオ州ライマに来た。戦後たった五年だったので、この小さな街では偏見があった。どこかにいっても日本人だから元の敵と思われた」
奈緒:「そうなんですね」
桂子:「私の通っていた横浜雙葉はフランスのスクールで、外国人の先生がいた。アメリカの宣教師もいて、日本を愛していてくれていた。そしてその宣教師は日本人に帰化したんです。そういう人を知っているから、アメリカ人だからと憎めなかった」
戦後、キャンプ座間で働きフランクと出会う
桂子:「マッカーサーはご存じ?私は英語が出来てタイプが打てたので、マッカーサーの第八軍の人事課の首脳部で働く事になったのよ」
奈緒:「そのキャンプはどこにあったんですか?」
桂子:「キャンプ座間。そこで抜擢され、一番偉い将校のオフィスで働くことになった。将校の向かい側で仕事をしていたら、新しい兵隊が入ってきたの」
奈緒:「どんな人?」
桂子:「ひょろっとした人。ある時にピンポンをしていたんです。そしたら、『僕もピンポンにいれてくれるかい?』って。その人がすごく強くて、もうびっくりして名前を聞いたんです」
桂子:「『名前はハーン、フランク・ハーン』と言いました。彼が未来の夫になるとは思っていませんでした。それからハーン伍長と友達になり、街を案内してほしいと言われたけど、断りました」
桂子:「その頃は米兵と歩いているだけで【パンパン】や【売春婦】だと思われ、世間の目が厳しかった」
フランクのどこに惹かれたのか…桂子は、しっかりとした口調でその理由を話してくれた。
桂子:「普通に扱ってくれたのよ。とにかく女性に対してまだ色々な差別がある時代でしたから、私にとって「普通」が素敵なことだったの」
奈緒:「私は今回戦争花嫁という言葉を初めて知ったんです。私の世代だと知らない方も多いと思うんですけど当時戦争花嫁っていう言葉を最初に聞いた時どのように感じましたか?」
桂子:「それを初めて聞いたのが、日本にいたときじゃなくて、アメリカに来てから聞いたので…びっくりしましたけれど…それで何かがということはない。もう色々な障害を過ぎたあとだったのよ。それを乗り越えた後だったから」
世間と戦っていた桂子
1951年、アメリカに渡った桂子。ただアメリカでは常々、差別の目を向けられていたという。
フランクの両親は温かく迎えてくれたが、オハイオ州ライマは黒人は少なくアジア人はほとんどいない土地だった。ほどなくして長男エリックが生まれた。
髪が真っ黒な子だった。
フランクの親戚からは、
「フランクの血を継いでいないようだね」と言われたそうだ。

桂子:「世間の目はいつも厳しかった。日本でもアメリカでも差別と戦っていた」
奈緒:「世間と戦っていた、というのはどんな思いがあったか、何故そんなに強く戦えたんですか?」