「死んでいく被爆者を見よ」

原口喜久也は、貧困と病の中で詩を書き続けた。「奇跡が起こって復活したら『小説』を50編書きたい(現代のカルテ「病床日誌」)」とも書き残している。

「核に犯され死滅してゆく者のこの刹那を
 ワシントンよ モスクワよ 知るがよい
 “ゲッセマネの園の祈り”を知るように」
(遺稿詩集『現代のカルテ』より)

※刹那=仏語。時間の最小単位。きわめて短い時間。
※ゲッセマネの園=イエス キリストが捕えられる直前に最後の祈りをささげた所。

1963年当時、アメリカとソ連は核実験競争を繰り返していた。彼の詩は、そんな世界に向けた叫びでもあったのかもしれない。

被爆から18年後の3月14日 午後2時、被爆資料が並ぶ4階で縊死。「貧乏のどん底」だったという暮らしの中で詩をよみ、音楽を愛した原口喜久也。桜の季節に自らの命を絶った。

亡くなる前日、病室で記したとされる詩が残されている。

【仕方がない!よし!墓場の下で文学作品を書き続けるぞ】
(遺稿詩集『現代のカルテ』自殺前夜 病院で)