山田太一の「早春スケッチブック」
山田さんの代表作の1つにフジテレビ『早春スケッチブック』(1983年)がある。旧作も含めたドラマの人気投票が行われると、ほぼ間違いなくランクインする。このドラマを見て人生が変わったという人もいる。
しかしながら、このドラマの世帯視聴率の平均値は7.9%(※ビデオリサーチ機械式視聴率調査・関東地区、以下同じ)。録画機器が広く普及する前で、ドラマが高視聴率を取りやすい時代だったから、かなり低い数字である。
一方、『山田太一作品集 15 (早春スケッチブック)』(大和書房)のあとがきに山田さんが書いたところによると、このドラマを観た人の中で、支持するとした視聴者の割合(Qレイティング)は72.3%。かなり高い支持を得た。F1層とM1層(男女20~34歳)に限ると、84.6%に達していた。観た人は熱くなるドラマだったのだ。
物語は自分の子供の出産を控えていた恋人の望月都(岩下志麻)を捨てて消えた元カメラマンの沢田竜彦(山﨑努)が、18年ぶりに戻ってくるところから始まる。沢田は無頼な男だった。
都は沢田が消えたあと、平凡な信用金庫行員・省一(河原崎長一郎)と結婚した。ささやかな幸せを手に入れていたので、沢田の出現に戸惑う。
沢田の息子・和彦(鶴見辰吾)は実父の出現に驚き、当初は拒絶するが、やがて絆を結ぶ。一方、和彦を我が子のように育てていた省一はうろたえた。今の生活を奪われることを恐れた。
沢田は自分が迷惑な存在であることは分かっていた。それなのに帰ってきたのはなぜか。和彦は実父の沢田と育ててくれた省一のどちらを選ぶのか。観る側を考えさせずにはいられないドラマだった。
沢田は和彦に多くのメッセージも与えた。
「お前らは、骨の髄まで、ありきたりだ」「なんてぇ暮しをしてるんだ」「人間は、給料の高さを気にしたり、電車が空いていて喜んだりするだけの存在じゃあねえ」「人間ってものはな、もっと素晴しいもんだ」
沢田は死期が迫っていた。和彦に自分の考え方を知ってもらうために帰ってきたのだ。沢田の言葉は山田さんから視聴者に向けて発せられたものでもあった。
山田さんは『早春スケッチブック』のシナリオ本のあとがきにこうも書いている。
「『なんてぇ暮しをしてるんだ』と罵声を浴びせる人間が登場するドラマは皆無といっていいでしょう。見る人の神経を逆撫でするような、そんな人物をひっぱり出してもいいことはなにひとつありません。こうやって書いている私だって、そんな人物は不愉快です」
山田さんはこのドラマに抵抗を感じる人が多いことが分かっていた。いつものことながら、視聴率最優先の作品ではなかったのである。山田さんはあとがきでこうも言っている。
「私を含めたいまの日本の生活者の多くは、そういう罵声を、あまりに自分に向けなさすぎるのではないでしょうか?『いつかは』とニーチェがいっています。『自分自身をもはや軽蔑することの出来ないような、最も軽蔑すべき人間の時代が来るだろう』と。実を言うと、そのニーチェがこのドラマの糸口でした」
山田さんは見る人に人生を見つめ直させるドラマを書いたのだ。見る人が熱くなったのはテーマが大きかったせいでもあるだろう。