30年前には日本中のあちこちの観光地にあったのに、姿を消してしまった「お土産」があります。子どもっぽい特徴的なイラストに、ローマ字で地名などが書かれたキーホルダーなどの小物類。のちに「ファンシー絵みやげ」と名づけられ、バブル前後の特定の時期のみに現れて消えていった文化のひとつです。
それは、地域の記憶を閉じ込めたタイムカプセルのような存在かもしれません。地震と豪雨で甚大な被害に遭った石川県輪島市で見つけた「ファンシー絵みやげ」は、そんなことを思わせるものでした。

「昔はこういうお土産が飛ぶように売れたのよ」
2024年元日に起きた能登半島地震で甚大な被害を受けた地域のひとつに、「輪島朝市」で知られる輪島市の「朝市通り」があります。地震によって発生した大規模な火災で約300棟が焼け、焼失面積は5万㎡に及びました。
筆者は地震から1年となる元日に放送する特別番組の取材のために、2024年の年末、輪島市を訪れていました。輪島の「ファンシー絵みやげ」に出会ったのは、「出張輪島朝市」として市内の商業施設に場所を移し、再開されていた朝市を取材していたときでした。

「もう30年くらい前に作っていたもので、昔はこういうお土産が飛ぶように売れたのよ」
そう語るのは、輪島朝市で総菜と民芸品を販売してきた福谷和子さん(82)です。
ローマ字混じりの「WAJIMA」「朝市」の文字と、頬を赤らめたキャラクターのイラストが、独特なタッチで木材に描かれたキーホルダー。

こうした特徴を持つお土産は、バブル全盛期、旅行ブームでにぎわう全国の観光地で広く売られ、のちに「ファンシー絵みやげ」と名づけられました。バブルがはじけてからは、お土産の人気は安価で配りやすい食品へシフトしたため、いまではこうした「ファンシー絵みやげ」はほとんど見かけなくなりました。
筆者が「ファンシー絵みやげ」を集めていたことを伝えると、「これがほしいの? なんだか私もうれしいわ」と快く売ってくれました。
地震と豪雨で被災、いまも避難所で暮らす
「これが最後の1個。豪雨のあとに、朝市で売れるものはないかと思って倉庫を整理していたら、隅から出てきたのよ」
工場を併設した福谷さんの住宅は、元日の地震で一部損壊し、そこに追い打ちをかけるように豪雨で裏のがけが崩れて全壊認定されました。

仮設住宅への入居の目途が立っておらず、震災から1年以上経ったいまも避難所で暮らしています。避難所の規模縮小のため、今月に入って別の避難所に移動しました。
仮設住宅についても「早ければ2月かな」と話していた福谷さんでしたが、その後に連絡すると「3月に入れればいいんだけど」と、避難所での生活の終わりが見えていません。
こうしたなかでも福谷さんは、被害を免れた厨房で総菜をつくり、出張輪島朝市で販売しています。豪雨のあとに倉庫に残っていた材料を使って、新たに民芸品も作って売り始めました。

「昔はね、民芸品を売るお店が50店舗くらいあったんですよ。もう今は作る人もいなくなっちゃった」
輪島朝市は、かつては360mの朝市通りに200 以上の店が軒を連ね、ピーク時の1980年には年間270万人もの観光客がにぎわう、輪島を象徴する観光名所でした。

現在の朝市通りは、ほとんどの建物が解体を終え、更地となった茶色い地面が広がっていました。隣接する道路や電信柱に残る「すす」が、火災の激しさを物語っています。
