■懲役5年~10年のB
「私が知っていることはなんでも話します」
約20年ぶりに東京で再会した義兄。物静かでひとつひとつ言葉を選びながら話す様子は、以前と変わらない。義兄は、改めてBと最初に会ったときのことから話し始めた。
記者「第一印象はどうだったか?」
義兄「こんな言い方したら変ですけど、薄気味悪い。嫌な印象しかなかったですね」
1999年8月4日、Bは28歳のとき満期で出所。その2日後、義兄はBと初めて会った。
記者「最初に会ったとき、Bの態度や表情は?」
義兄「俺様という感じで、自分が一番だぞという態度でしたね」

Bは1971年5月11日生まれ。幼いころに父親が愛人をつくり家を出ていった。母親は2人の幼子を養うため働きに出ねばならず、Bは「家族そろって食卓を囲んだ記憶はない」と供述している。小学校では野球、中学校では陸上に打ち込み、大きな問題行動は起こしていない。だがスキーで足首を骨折し、得意のスポーツができなくなってから人生は暗転する。学校の成績は下がり始め、私立高校に進学したものの、身長180センチという目立つ体格からいじめにあい、不登校となって、最後は中退。前後して母親に暴力を振るうようになった。その頃出会ったCの自宅に出入りするようになり、Cの不良仲間だったAと知り合う。「道具のように使われる」として当初はAを避けていたが、Bが暴走族との間に起きたトラブルをAに相談してから、Aと行動を共にするようになり、Bの非行性が増す。
この頃Aを中心とする不良仲間は、自動車などの窃盗や、見ず知らずの女性を連れ去って強姦することを繰り返していた。Bも何度か加わった。そして1988年11月25日夜、AとCが自転車で帰宅途中の女子高生を襲い、Cの自宅に監禁し、凄惨な事件が始まった。
裁判では4人の少年が実刑判決を受ける。Aは懲役20年と最も重かった。Bは懲役5~10年、Cは懲役5~9年、Dは懲役5~7年のいずれも不定期刑だった(確定判決)。Bは、最終意見陳述で涙ながらにこう述べた。
「被害者の女性がどれだけ熱かったか、どれだけ痛かったか。一生謝っても謝りきれない。僕の一生をかけても償っていきたい」