戦争が始まると『恐ろしい仮面の親善使』と表現

 奈良県五條市の「賀名生の里 歴史民俗資料館」にある「パトリ」と名づけられた人形。
 奈良県五條市の辻内近司さんの母・千重子さんはパトリが小学校に来た日のことをよく話していたといいます。

 (辻内近司さん)
 「校長が夕方、パトリを抱いて学校へ帰ってきたと。『抱きたいか?』と言われて『抱く抱く、先生抱かして』と言って抱いたのが初めてだったと」
 しかし1941年に太平洋戦争が開戦すると、友情の証だったはずの人形は…。

 【1943年の新聞記事より】
 「『青い眼をした眠り人形』は今にして思えば恐ろしい仮面の親善使であった」

 「鬼畜米英」と叫ばれた時代。青い目の人形は処分すべきとされ、子どもたちの目の前で叩き壊され、焼き払われ、1万2000体あった人形はわずか300体ほどしか残りませんでした(存在が確認されているもの)。

終戦から9年後に発見された人形

 しかし終戦から9年後、辻内さんの母・千重子さんは思わぬ場所でパトリと再会します。

 (辻内近司さん)
 「(PTAで)校舎や炭小屋、古いものを全部処分しようと。炭小屋から汚い人形が出てきた。『もう捨てようか』という話だったが『ちょっと待って。私にも見せて』と母親がかき分けていったらしいです。そしたら『パトリや』ってすぐわかったって言うんですよ」

 戦時中、校長がパトリを守るため、炭俵の奥底に隠していたのです。
 その後、千重子さんは炭だらけのパトリに新しい服を繕い、小学校が閉校されるまで平和を考える授業に使われたといいます。戦争という時代を生き抜いた“ふたり”。千重子さんはパトリを次の世代に繋ぎ、97歳で亡くなりました。