久しぶりに出会いましたが、「久しぶり」がわかる気がします
「日本人ばなれ」という表現をどう思うか、という話題がでました。「すごい人」「かっこいい人」を表した際に使われたかなと思い出しますが、そういえば最近出会いません。以前はスポーツ選手や俳優などの秀でたその能力や容姿について、「ほめ言葉」「せん望」の意味をこめて違和感なく使っていたと思います。
戦後から高度成長期にわたって日本中に「世界に追いつけ追い越せ」という空気が満ちた時代、「日本人ばなれ」は自らを劣位・下位に身を置いた謙譲・謙遜としての「ほめ言葉」「せん望」だったのかな、などと想像します。
とはいえ、ここでいう「日本人」とは何でしょう。外国籍の人との間に生まれた日本人は数多く、「多様性」が強く意識される時代になりました。体格のよい日本人も数多くいます。「日本人」のイメージを標準化、固定化(最近は「ステレオタイプ」という表現を多く目にします)することは困難です。
また、あえて「日本人」のイメージを相対的に劣位におき、「日本人ばなれ」を「ほめ言葉」「せん望」とする必然もなくなったともいえます。「日本人ばなれ」は、使われなくなった、また使う必要がなくなった「死語」なのかも知れません。
表現も「ビジュアル」?
「慣用句」とは「全体で一つの意味を表す語」のことですね。例えば「愛想をつかす」は「好意や愛情、信頼がなくなる」、「煙(けむ)に巻く」は「知らないことや大げさなことを言って、相手を惑わしたり、ごまかしたりする」など、いろんな慣用句があります。
その慣用句が「文字通り」に使われてしまうことがあります。その一つに「開いた口がふさがらない」があります。「あきれて、ものが言えない」という意味なのですが、これを驚きや称賛の意味で使ったり、ただ単にぽかんと口を開けた状態に使ったりするのを目にします。
慣用句の面白さは、その表現の背景・理由を含めた解釈にあります。「開いた口がふさがらない」のは、「あきれている」という背景・感情があってこその表現で、そこに面白さがあります。とはいえ、ビジュアル(見た目)が大事とされる傾向は強く、表現もまたその影響を受けていると思います。
「開いた口がふさがらない」もビジュアル(見た目)でいえば、単に「ぽかんと口を開けた顔」になるのでしょう。ですから、驚いても、称賛していても、あるいは理由がなくても、口が開いていれば「開いた口がふさがらない」のでしょうね。
同じようなことは、「涼しい顔」という慣用句にもいえるかも知れません。「関係があるのに、関係がないかのような顔をする」という意味で、類語として「知らんぷり」「知らん顔」があります。ところが「涼しい」の印象からなのでしょうか、「大変な状況でも平気そうにしている」という意味で使われることが多いそうです。これも「涼しい顔」の背景・感情を意識せずに、ビジュアル(見た目)でとらえているのでしょう。
こうした傾向は今後も続くと思います。もしかすると「前人未踏の記録を更新し続ける○○選手の姿に、ファンは開いた口がふさがらず、選手本人は涼しい顔をしています」という表現に、違和感を覚えない日は近いのかも知れませんね。