自身の動きをイメージし、修正する能力
高校1年時(14年)の記録は6m73で、その年の高校100位(7m04)とも大きな差があった。上を目指す気持ちもあったが、走幅跳を跳ぶこと自体が楽しかった時期である。それが高校2年シーズンには7m70と、1m近く記録を伸ばした。
「高2(15年)の4月に7m17まで記録が伸びたのですが、その試合から動きが変わってきました。そのときにこれは絶対に(トップレベルに)行く選手だ、と思いました。そこから同学年以下の選手には負けなかったですし、8月のインターハイも4番に入りました」
記録が伸びた背景にはやはり、踏み切りのドリルをやり続けて来たことがあった。「踏み切りの動きは非凡なものがありました。時間はかかりましたが、モノにしてからはもうすごかったですね」
ドリルのやり方は奥が深い。やり続けないとできないことが多かったが、渡辺先生に言われたことをすぐにイメージすることができた。同じように走幅跳の動きについても、渡辺先生のアドバイスに対する修正能力は高かった。
「高2の秋から走幅跳や陸上競技の動きがわかってきたんだと思います。今動きがこうなっているから、こういう風にやってみたら、と言うと100%に近いくらい改善できました。そんな選手はなかなかいません。当時もスマホはありましたが、まだ動画を撮影して、それをすぐ見て改善する時代ではなかったんですね。橋岡は動画を見なくても、第三者から言われたことをすぐイメージできる選手でした。僕と感覚が合ったから、なのかもしれませんが、そういった修正能力は全然違いましたね」
10月には前述の7m70を、日本ユース選手権で跳んで優勝した。踏み切りだけでなく、当時から「体の強さはすごかった」という。
「ウエイトトレーニングの種目もそうですし、砲丸のフロント投げやバック投げなどもそうです。一瞬で大きな力を出す能力は突き抜けていました」
高校2年の4月に7m17を跳んだ頃から、橋岡のトップを目指す気持ちが強くなったと、渡辺先生は感じている。そして10月の日本ユースで全国優勝をしたり、国体で2位になったりした頃から「上昇志向、負けず嫌いの性格が会話の中でも感じられるようになった」という。
「僕が試合後に『よかったじゃない』と言ってもほとんど、『もっと行けました』『もっとこうできました』と言っていました。勝っても反省点を繰り返し言うんです。言うだけでなく、自分の中で処理をして実行できる選手は少ないと思います」
踏み切りという基礎を徹底的に強化した高校3年間だったが、その過程でも結果が出始めたのが2年時だった。

















