パリ五輪男子走幅跳代表の橋岡優輝(25、富士通)が、この種目88年ぶりのメダル獲得を目指している。橋岡は最大の武器である踏み切りの強さを生かした跳躍で、18年のU20世界陸上に優勝。19年の世界陸上ドーハ大会で8位入賞、前回の21年東京五輪では6位と38年ぶりの入賞を達成した。
メダルを狙うには助走スピードのアップが必要と考え、22年シーズン後からはサニブラウン アブデル ハキーム(25、東レ)も練習する米国のタンブルウィードTCで練習を行うようになった。レイナ・レイダー氏の指導を受け始めたのだ。昨年は世界陸上ブダペストで、自身世界大会で初めて予選落ちするなど新助走が結果に結びつかず苦しんだ。今季もファウルの試技では8m30以上の距離が出ているが、公式記録は初戦の8m28以外は8mジャンプがない。
それでも、世界的にも屈指と言われる橋岡の踏み切りが崩れることはない。踏み切りを生かした跳躍の原型が形成された高校時代を指導した渡辺大輔先生(八王子高)に、橋岡の高校時代の取り組みをうかがった。

踏み切り強化を徹底して行った高校時代

日大で橋岡を指導し、前述の国際大会での成績を支えた森長正樹コーチ(8m25の元日本記録保持者)が、橋岡の強さは「世界トップレベルの踏み切り」だと話したことがあった。

「渡辺先生が踏み切り技術を徹底して指導してくれました。スピードも元からあったのですが、踏み切りを優先して助走スピードを上げなかったことで、世界と戦う自信を持てる踏み切りを身につけられました」

その踏み切りをどう、高校時代に身につけたのだろうか。八王子高の渡辺先生は森長コーチの日大の4学年後輩。自己記録は8m12(99年)、00年シドニー五輪走幅跳代表だった。橋岡は両親とも元日本記録保持者(父・利行さんは棒高跳、母・直美さんは100mハードルと三段跳)で、直美さんの妹の良子さんが渡辺先生と結婚していた。

「小さい頃、遊んでいるところも見ています。ぴょんぴょんしていましたね。両親が陸上競技を勧めたことはなかったようですが、橋岡本人が『やってみようか』くらいの気持ちで、中学で四種競技を始めました。走幅跳選手として指導したいと、全日中(中学生の全国大会)を見たときに思いました。体の使い方、バネがちょっと他の選手とは違いましたから。走っているときも、ハードルを跳んでいるときも、それは感じられました」

橋岡選手(今年の日本選手権)

高校入学当初は、走幅跳に絞ると決めてはいなかった。試合は110mハードルと走高跳、走幅跳で出場していた。走高跳の方がレベルは高かったが、本人の希望もあって徐々に走幅跳中心になっていった。渡辺先生が一番重点を置いたのは、基礎をしっかり作ること。踏み切りの強さを出すための動き、体を動かす感覚を養うことだった。

「助走ももちろんですが、踏み切りの(動きづくりのための)ドリルをずっとやりましたね」

八王子高ではギャロップというドリルを多く行っていた。タターン(タが接地脚、ターンが踏み切り脚)、タターンというリズムで前に進んでいくメニューだ。

「ただやっている選手と、ポイントを理解・意識してやっている選手では違いが出ます。体(全体)の動かし方、足の付き方ひとつで全然違ってきますから。レベルが上がったり、スピードが出てきたりすればまた変わってくる。感覚的な部分が大きいので言葉で説明するよりも、ダメな動きを真似してあげたり、良い動きを見せてあげたりしました。こうなっているから、こうやってみたら、と理解しやすいように身振りで示してあげました。でも、すぐにはできませんでしたね。橋岡でさえ、跳躍に結びつくまで時間がかかりました」

橋岡は単調なドリルをとことん突きつめた。五輪代表だった指導者の言うことだから安心できたのかもしれないが、何よりその練習をやれば良い跳躍ができると、直感的に感じたのではないか。