2.エデュケーショナル・マルトリートメントとは
1)エデュケーショナル・マルトリートメント
児童虐待は、「<保護者が>その監護する児童について行う次に掲げる行為…」(児童虐待防止法第二条)と定義づけられているが、実際のところ、しつけや教育を名目とした虐待は、教師やスポーツ・コーチなど「子どもの指導者」からなされることも少なくない。
そのため、筆者は、より広く「親を含む大人」からの教育に関連する「不適切な対応(虐待)」を「エデュケーショナル・マルトリートメント」と名付け、それが日本社会の文化や価値観の下で是認されていることに対する注意喚起を始めた。マルトリートメントとは、心理的虐待も含む虐待を意味する英語である。
エデュケーショナル・マルトリートメントは、「誰かによる」単一のマルトリートメントを指すのみならず、ある子どもが継続的に受け続ける「あなたのために良かれと思って」「他の方法があることを知らなくて」浴びせ続けられる育児や教育のシャワー全体を指す概念である。一人の大人によって継続的に行われる場合もあれば、同じ子どもに対して次々と場所と人と形を変えて行われる場合もある。
その底流にある価値観を子ども向けのコマーシャルなど他の情報が補完する。例えば、多すぎる宿題に苦しんでいた子どもに、親が「もうやらなくていいよ」と言ったら、でも「ドラえもんが『宿題はやらなくちゃ』と言うよ」と子どもが言った、というように。社会の圧力は、思わぬところで子どもたちに降りかかっている。
子どもの周りの大人たちが揃って能力重視の思考を持っていれば、子どもも「何かができなければ尊重される価値がない」という価値観を身につけ、友だちともそれを共有するかもしれない。津久井やまゆり園事件のように「障がい者は殺してもいい」と思うようになるかもしれない。
一方、学力が低い子どもが、授業がわからないまま何年も学校に通っている。学びが成立していないが、誰もが年齢別学級はあたりまえだから仕方ないと思ってケアしない。こちらはネグレクトである。生徒の学習権が侵害されている。
新自由主義に基づく競争社会においては、子どもの権利の基本として保障されるべき、休息、睡眠、遊び、楽しむこと、兄弟や友だちと過ごすこと、日々の生活を穏やかに暮らすこと、家事を分担して生活能力を身につけると同時に、家族の一員としての自覚と責任を持つことよりも、勉強して成績を上げること、特技を持つことなど、経済的価値に結びつくことの優先順位が高くなりがちである。
子どもの発達には、効率的でない一見「無駄」な活動や「失敗を繰り返しながらの試行錯誤」「回り道」が必要であるということは、一般にあまり知られていない。そのため、発達のプロセスを熟知しないまま、自分が育てられたときに身につけた価値観に基づく行為を正当化して、マルトリートメントを是認してしまう。
人が不適切に扱われること、傷つけられることが常態化している社会においては、マルトリートメントが気づかれずに継続してしまうのである。このように生起するマルトリートメントを武田(2021)はさらに『社会的マルトリートメント』と名付け、それが蔓延する社会を『マルトリ社会』(2023)と呼ぶ。
幼少期からの激しいマルトリートメント体験はトラウマとなり事件性をもつが、じんわりと続く継続的なマルトリートメント体験もまたトラウマとなりうる。それを複雑性PTSDと言う。
複雑性PTSDは人の生涯のウェルビーイングを脅かす。社会的マルトリートメントが生じないように育児や教育の環境を改善することは個人の責任というよりはむしろ社会が担うべき責任である。複雑性PTSDの侵襲性と社会の責任という2つのことが多くの人々に認識されるようになったら、そのときようやくマルトリ社会は変わり始めるだろう。
2)教育虐待
教育虐待とは、「親が教育という名目で行う子どもの受忍限度(心身が傷つきに耐えられる限界)を超える虐待」(武田、2019)で、家庭内で行われる。2020年末にNHK番組『あさイチ』で、虐待ということばが親を責めることにつながる懸念から「やりすぎ教育」とマイルドな名称で紹介された。エデュケーショナル・マルトリートメントの亜型である。
子どもたちは生まれた場所、家庭の文化の中で育っていく。生きるために養育者に頼るしかない。養育者が持つ価値観の中で生活し、その中で自分の価値観を形成し、それが自分を理不尽に縛るものであっても、その価値観で生きていくしかない。
実は、教育虐待は古今東西に見られる現象である。古くは中国の科挙、あるいは近年はインドや韓国など特にアジア圏の受験の熾烈さとそれに伴う教育の強制はよく知られている。
親が「子どもの将来を思って」熱心なあまり、子どものウェルビーイングを損なうまでに勉強やスポーツ、音楽などを強制する行為や現象をさす。強制そのものの激しさと、それに伴う睡眠や休息、遊ぶ時間の剥奪など、心身の発達に配慮することなく、子どもに共感することもなく人権を侵害する行為が、家庭という密室の中で、ときに幼少期からしばしば長期間にわたって行われるものである。
教育虐待に至る親は子どものNOをスルーする。自分は正しい育児・教育をしている愛情深い親であると疑いなく信じており、それが子どもを苦しめて、本末転倒になっていることに気づかない。
脳は、適正な環境刺激の中ではあらゆる形で発達していくが、学力つまり大人の意図する特定の認知発達のみを促進する働きかけは、社会情動的力など、学力より先に発達して学力の下支えをする基盤となる能力の発達をむしろ阻害するかもしれない。
また、一般に虐待は生活困窮家庭で起きる可能性が高いと言われるが、教育虐待は、子の価値を高めたいという動機から行われ、高学歴高収入の親による事例も少なくない。
受験勉強の強制は、子から親への報復的な殺人事件として今も語り継がれる神奈川金属バット両親殺害事件(1980年)を発生させ、世間を騒然とさせた。近年では親が子を殺害した名古屋小六受験殺人事件や鳥栖両親殺人事件、滋賀医科大学生母親殺害事件が記憶に新しい。これらは特殊な事例と思われがちであるが、学校現場はもちろん、精神科や教育相談の現場、進学塾や学童保育などさまざまな場面で、トラウマによって心を病んだ子どもたちに出会うことは少なくない。
つまり、教育虐待は事象として目新しいものでも珍しいものでもない。しかし、長い間、他の虐待と区別して概念化されることがなく、また体罰のようにあまりにも一般化していたがために、事象から距離を置いて論じることができなかったと考えられる。
3)教室マルトリートメント
エデュケーショナル・マルトリートメントの中でも特に「教育現場における指導者による不適切なかかわりや本来であれば避けるべきかかわり」を、川上康則(2022)は教室マルトリートメントと定義した。「違法行為と定められたかかわりだけではなく、処分の対象とされていないような『心理的虐待』や『ネグレクト』に類似したかかわり」も含めて教室マルトリートメントが行われていると指摘したのである。
教室マルトリートメントは、第三者の入りにくい教室の中で行われる。発覚しても、しばしば「子ども想いの良い教師」「厳格で優秀な教師」によって行われた指導とされて問題化しにくい。
また、「授業を教える力量や熱意のない先生」「学力の低いあるいは高い生徒等を放置してしまう先生」によって「学ぶ機会を剥奪されるが気づかれにくいネグレクト」も対処されにくい。でも、生徒たちは教室という小さな世界の中で生きているので、自分たちの日々の体験がマルトリートメントであるということに気づきにくい。
このような指摘をすると、教師が悪いように思う方もいるかもしれないが、教育虐待において、親が知らなかったり追い詰められたりしているのと同様、教師も知らなかったり追いつめられたりしているということに気づく必要がある。
背景には、教育を訓育と捉え、良いことを教え込もうとする価値観、教員の勤務条件や人間関係などの環境、受験戦争、子どもの育ちの責任を学校だけに担わせようとする社会、不適格な教員志望者にまで免許を授与する養成の仕組みなど、複雑な要因が重なってしていると考えられる。教員個人の責任を問う姿勢では教室マルトリートメントを根絶することはできないだろう。