ウクライナへの軍事侵攻が長期化する中、日本では今年もまもなく終戦の日を迎えます。
皆さんは、8月15日以降に、戦闘が行われていたことをご存じでしょうか。
それがこちら千島列島の北にある、シュムシュ島での戦闘です。

終戦直後に受けた奇襲攻撃。そしてシベリア抑留で強いられた過酷な労働を経験した男性に思いを聞きました。
シュムシュ島の守備を担う戦車11連隊に配属
自らの戦争体験を記した手記。
書いたのは、五ヶ瀬町に住む佐伯光男さん(97歳)です。

(佐伯光男さん)
「もう生きとったっていうことは、それはそれなりの何か自分でしなければ、いかんことがあるのかなと思って」
佐伯さんは、1942年、17歳の時に静岡県の陸軍少年戦車兵学校に入学。

卒業後に、千島列島の北にあるシュムシュ島の守備を担う戦車11連隊に配属されました。
空襲などはあったものの、実際の戦闘に参加することなく終戦を迎えた佐伯さんたちですが・・・


(佐伯光男さん)
「非常呼集がかかったんですね、そして敵が攻めてきたって。敵ってその時まではアメリカ軍かと思っているんですね」
戦車の整備で2時間の遅れが・・・
「シュムシュ島の戦い」。
終戦の3日後の8月18日、武装解除中の旧日本軍に奇襲攻撃で侵攻してきたのは旧ソ連軍でした。

(手記より)「終戦まで敵と戦う機会のなかった戦車11連隊の将兵は、思いもよらぬ終戦後に初陣を迎えることになったのだった」
激しい戦闘で日ソ両軍のおよそ3000人が死傷したとされています。
(佐伯光男さん)
「直ちに出動せよということなんですけども、整備のできとる戦車はそのまま行きましたけれども、私の戦車は整備をするのに2時間くらいかかったんです。2時間が今、私が90年生きとることになるんです」
佐伯さんは、戦車の整備が遅れたため、戦闘に参加できないまま停戦となりましたが、その後、生き残った日本兵は、ソ連軍の捕虜となりました。

(佐伯光男さん)
「連れていかれるというよりも、まだまだ、その時はうちに帰るというほうが強かったから、帰すってことだったんです最初は」
やせ衰えて、シラミだらけになって、コケだらけになって、垢だらけになって、生きとった
佐伯さんたちが連れていかれたのは、シベリア。
わずかな黒パンと薄いスープという食事の中、2年間、炭鉱などでの労働にあたった佐伯さん。
日本に戻れたのは、終戦から2年後の1947年8月6日。引き揚げ船で京都府の舞鶴港に到着しました。

(佐伯光男さん)
「(日本に)帰ろうという気持ちだけで2年間、やせ衰えて、シラミだらけになって、コケだらけになって、垢だらけになって、生きとったんですから、それはものすごくうれしかったですね」

どのような戦いも苦しく、悲しく、辛いもの
戦争体験者が少なくなる中、佐伯さんは、当時のことを語り継がなければならないと、88歳を契機に自らの経験を書き留めるようになりました。

(手記より)
「戦争は決して勇ましいものでも美しいものでもありません。どのような戦いも苦しく悲しく辛いものです。
四嶺山(しれいざん)に横たわる戦車の一輛一輛にどれだけの人の悲しみ、無念さがやどっているのかを、今一度思いやってください」

戦後77年、少年兵として、戦争そしてシベリア抑留を経験した佐伯さんが、今、思うことは。
(佐伯光男さん)
「皆さん方にこういう話を断片的にでも話したりする機会があることひとつ。
それから、私が何としても一番いいのが、ものすごくいい家族恵まれたことなのです。これはものすごく自慢していいです。
戦争に負けて捕虜になったのは、恥ではあるけれども、やっぱり生きとって良かったなと私は思うんです」

※MRTテレビ「Check!」8月12日(金)放送分から