JRAでは競馬学校の教官に あのGⅠジョッキーも教え子
06年にJRAに進んだが、不運にも07年に馬インフルエンザが流行。競技シーズンの中盤から、試合がまったく無くなってしまった。時を同じくして、08年には人事異動で滋賀の栗東トレーニングセンターへの配属となる。わずかな時間を縫って馬術競技は続けていた。その2年後には、騎手や厩務員を目指す人材を育成する競馬学校の教官に配属された。競馬学校で接する機会があったのは29期生や30期生。今年の「天皇賞(春)」をテーオーロイヤルで人馬共に初GⅠ制覇を飾った菱田裕二(31)も教え子の一人だ。
戸本:
騎手課程を教えたのは、数か月あったのかなというくらいの期間。生徒たちもわずかな時間だったのでひょっとしたら僕の名前を憶えてないんじゃないかなというぐらいの時間ですね。
拠点をイギリスへ トップライダーから学んだ「SO WHAT?」
競馬学校での教官を経て、馬術競技に復帰。その後の13年に東京五輪の開催が決定した。当初は障害馬術での出場を目指していたが、JRAの勧めもあり総合馬術へ本格的に転向した。
戸本:
東京でやる五輪に自分が選手として出られることは一生無い。自国開催の五輪に出られるかもしれないチャンスを逃せば一生無いかもしれない。大学生の時に総合馬術をやっていましたし、完全に一から始めます、ではなかった。
転向の決断は16年だったという。当初20年の開催が予定されていた東京五輪までは4年をすでに切っていた。それでも母国開催の舞台に立つために、戸本は海外に拠点を移す。
「日本では感じたことのないレベル」を痛感
馬術競技が盛んなイギリスで武者修行が始まった。馬術の競技会には「ファイブスター」と呼ばれる最高クラスから、「ワンスター」と呼ばれる下位レベルに分かれている。イギリスで当初出ていた大会は「ワンスター」よりも下の地方大会だった。戸本は「クロスカントリーは日本では感じたことのないレベルだった」とレベルの高さを痛感したが、練習で経験を積み重ねた。
大目標のために一喜一憂しない「それがどうした?」の心構え
イギリスでの武者修行中、戸本の考えを一変させる出会いがあった。イギリス人のトップライダーに学びたい、その想いからトレーニングを打診したのがウィリアム・フォックス-ピット氏。国際大会で数多くの優勝経験を持つイギリス馬術界のトップライダーだ。
戸本:
『SO WHAT?(それがどうした?)』がという言葉を彼がよく使うんですけど・・・。 小さな大会で僕が落馬してものすごい落ち込んでいた時に『落ちる時くらいあるよ』って言われて。簡単な3番目の障害でミスをしてしまった時に『人生の中で何回、障害を跳んだんだ。100個も跳んできたときに103個目の障害で落馬することくらいあるよ』と言われたんですよ。そんな考え方をしたこともなかったです。
トップライダーから伝えられたのは、失敗は関係ない。すべては大目標への準備だという事。
戸本:
『お前の目標は東京五輪だろう。それ以外の試合は東京五輪のための準備でしかない。どんな結果が出ようとも、失敗したって気にすることじゃない』と言われて、彼の中では大きな目標に到達することが全てだという事がはっきりしていて・・・
失敗しても「まだまだ東京五輪まで時間がるだろう」と言われた時は、鳥肌が立った感覚だった。その言葉に救われることが多くあった。大目標のためにひとつの結果に一喜一憂しない「それがどうした?」の心構え。メンタル面での成長が、戸本の成績を押し上げていった。本格的に総合馬術をはじめて2年余り、18年の世界選手権では団体で4位入賞。日本馬術界の戦後最高成績に、五輪のメダルへの手応えと感じた。
東京五輪では「自分のペースを」
新型コロナウイルスの影響もあり、東京五輪は21年の開催となった。世界のトップ選手が東京に集まった。周りの練習も良く見えた。『周りに振り回されちゃダメだと、自分は自分のリズムを貫け』とフォックス-ピット氏からの助言もあった。
戸本:
周りの選手がフルーツとサラダとか鶏むね肉みたいな食生活をしている。栄養バランスよく食べなきゃと感化されていた。
ある時、他の種目の日本選手がミスをするシーンを目の当たりにする。普段は失敗する事のないような選手が失敗。その時に戸本は、はっと気づかされた。
戸本:
普段通りに出来ない事がオリンピックの難しさなんだと痛感した。自分を取り戻さなきゃと、朝はマフィンと砂糖がいっぱい入ったコーヒーを飲むようになった(笑)
普段通り、その騎乗で愛馬ヴィンシーとともに総合馬術では日本人初の4位入賞。最後の障害馬術、順位を決めるジャンプオフでは最後の一人まではメダル圏内だった。