初公判で無罪を主張

アメリカ軍がBC級戦犯を裁いた横浜軍事法廷。1948年3月11日。七郎さんらに対する裁判が始まった。

「シチロウ、マタケ」

アメリカの国立公文書館に収蔵されているフィルム。初公判で七郎さんは無罪を主張していた。

「虚偽の供述」を訴える嘆願書

一方、日本の国立公文書館が所蔵する戦犯関係の資料の中に、七郎さんの嘆願書があった。英文で書かれた嘆願書は、福岡で取り調べをしたマクナイト氏宛になっている。自白を強要した調査官だ。最後に七郎さんの名前が入っている。

(眞武七郎さんの嘆願書)「私が述べた真実は受け入れられず、私の意思に反して知らない事実について虚偽の供述をせざるを得ませんでした。」

「もし否定し続ければ私はまた刑務所に入れられるだろう。妊娠している妻や2人の子供たちのことを考え続けた。」

「妊娠した妻」のお腹のこどもは、三男の清志さんだ。

長女ナナさん「朗らかな父ではあったんですけど、こういったときの話はあんまりしなかったですね。本当に。」

三男清志さん「触れられたくない部分ってあるじゃないですか。きっとそこだったんでしょうね。」

センセーショナルに報道された戦犯裁判

当時、この裁判は大きく報じられ、「人肉を食べた」と、センセーショナルに取り上げられた。しかし、法廷では自白調書が問題となり、証言も否定するものが相次いだことから、結局、5人全員が無罪となった。

スガモプリズンでの1年間の生活でリウマチを発症し、ゆっくりとしか動けなくなった七郎さん。立って長時間、手術をすることが難しくなり、内科を中心に診る開業医として戦後を生きた。55年前の1969年、61歳で亡くなった。

スガモプリズンで描いた絵がみつかった

2023年。スガモプリズンで収監されていた間に七郎さんが描いたという絵が見つかった。

長女ナナさん「なんか76、7年経って父のスケッチが戻ってくるって聞いたときに何で今頃って感じでちょっとびっくりしてしまったんですけどね」

三男清志さん「よくぞ取っててくれたって気持ちもありますよね」

1947年10月11日に書かれた絵。絵には、英文が添えられている。

「なんだ、この不運は。彼らの正義ばかりを信じるな。まやかしの真実を疑え。進め、進め、君の真実と共に。そうすれば自由を勝ちとれる」

絶望の淵に立たされたような獄中生活のなかで、七郎さんは自分を鼓舞するような言葉を書いていた。

三男清志さん「もし親父がその時、絞首刑にでもなったら、いまの我々ないですからね。妹もいませんしね。」

七郎さんは、スガモプリズンの監房の中で過ごす様子や日々の生活風景を、風刺も交えて描いていた。