■ 空の青以外の色がなくなった


絵を描く築地さん (2001年取材 当時66歳)
築地さん:「この絵は鑑賞する絵じゃないのよ。これは、継承する、語り継ぐための素材なのよと。だから、これは決して、普通の展覧会のように、風景画なり 何なりとして 売り絵として出るもんじゃないの。これは、継承のための絵です」


築地さんの『語りべ画』の多くが浦上天主堂をモチーフにしています。
77年前、一面、焼け野原の中、築地さんの記憶に深く刻まれたのは、”浦上天主堂の赤いレンガと青い空” でした。

築地さん:
「子どもたちにお話をする時に『色がみんな無くなったのよ』って。でもね…『空だけは色がついてたよ』ってお話をするの」
香蓮さん:
「やっぱその色があるっていうのは安心しましたか?当時は?」
築地さん:「そうそう」
■ 「あんたのことは知らない」12歳で戦災孤児に

浦上天主堂には、築地さんがデザインを手がけたステンドグラスがあります。
被爆した旧天主堂の無残な姿です。


香蓮さん:
「瓦礫の教会(の姿)を残したいと思われたんですか?」
築地さん:「そう」

被爆後、自宅跡にバラック小屋を建て、生き残った祖母と2人で生活してきた築地さん。
しかし、祖母は祖父の後妻で、築地さんとは血縁がなかったこともあり、その暮らしは長くは続きませんでした。

築地さん:
「僕が小学校の6年、卒業したら『あんたのことは知らないよ』というようなことを言い渡されたわけ」
香蓮さん:「お一人になられたってことですか?」
築地さん:「そうそう」

築地さんは、戦災孤児となった少年たちのために設立された施設『聖母の騎士園』に入ります。

香蓮さん:
「聖母の騎士園での生活っていうのは、どんな日々でしたか?」
築地さん:
「騎士園っていうところは、色んな人生を送ってきた人たちの ”心の拠りどころ” だ。子どもたちが和気あいあいとして、自分より年上は『お兄さん』と呼ぶ。ほんとに心の安らぎを感じたね」
築地さんは、天涯孤独となった悲しみよりも、安住の地に辿り着いたような安心感の方が強かったそうです。

築地さん:
「原爆の瞬間的な悲惨さ、その恐ろしさよりもね、僕にとっちゃ、原爆の落ちた後、どうやって生き延びようか、僕の人生の中でどういうスポンサーがつくんだろうかと、そういう不安の方が大きかったね。『人との出会い』そういうのを大事にするしか自分の(財産)はないわけさ。それを大事に生きてきたねぇ」

今は、妻の介護などで絵を描くことは難しくなりましたが、それでも『自分にできることを』との思いで、去年、手元にあった54点の ”語りべ画” を浦上キリシタン資料館に寄贈しました。