■ 被爆から50年経って惨状を描いた理由

築地さんの母校・山里小学校です。
原爆で1,300人もの児童が犠牲となりました。

♪「あの子」(永井 隆 作詞、木野 普見雄 作曲)


亡くなった子どもたちを想い、歌い継がれている「あの子」
この曲を、築地さんは歌うことができません。


築地さん:「もう僕はね、この歌を聞く度に涙が出るの」
香蓮さん:「やっぱり当時のことを思い出して」
築地さん:「そうそう『壁に残った落書きの』ね。もしも『あの子が生きていたなら』ね」


子どもの頃、絵が得意だった築地さん。
原爆の絵を描き始めた原点が母校にありました

■ 学校の”形見”で描く『語り部画』

被爆から50年。築地さんは、かつての仲間たちが ”被爆の語りべ” として活動していることを知り、自分にもできることはないだろうか?と思い始めます。
そんな築地さんの背中を押してくれたのが…


(山里小学校 原爆資料室のなかの展示品)
香蓮さん:「あ、何ですか?」
築地さん:「これ、これが消し炭」


保存された ”原爆で燃え残った校舎の一部” です。

築地さん:
「これで木炭画が描けないだろうかと思ったわけ。母校のね…原爆の後のあの姿をね、木炭画として描きたいと言ったら、(当時の校長が)ぜひ描いてくれんかと」


絵でなら、あの日のことを伝えられるかもしれない──

木炭の一部を譲り受け、何かに駆り立てられるように ”被爆した母校” を描きました。絵は今も、校内に飾られています。


香蓮さん:
「あの木炭を使ったっていうのが、すごく思いが込められてるっていうのを感じますし」
築地さん:
「これは ”学校の形見” ですよって(子どもたちに)説明したのよ」
香蓮さん:
「形見って…まさにそうですよね。学校の物をいただいて描いた作品ですもんね」

以来20年以上、”原爆を伝える絵” を描いてきた築地さんは、自身の絵を『語りべ画』と名付けています