“日本一サッカーが下手な指導者”の原点
橋川監督が生まれたのは佐賀県の南部にある塩田町。有明海に面した街です。

「我々の時代は町内の子ども会でソフトボール大会があったり、町内に地元の建設会社が作ってくれたプールがあったり…夏は2時間ぐらい泳いでいました。なので、一番得意なのは水泳という…で野球、サッカーは3番目ですかね」
「プレイヤーとしては全然ですよ。“日本一サッカーが下手な指導者”ですから」
そう話した橋川監督。それでもサッカーが大好きで、学生時代のポジションはキーパーだったそうです。いつか指導者になれたら…そう考えて佐賀大学を卒業し、筑波大学の大学院で学んでいるとき、福岡のクラブから指導者としての誘いがやってきました。それはアビスパ福岡の前身・福岡ブルックスでの育成年代のコーチとしてでした。

当時、一緒に育成年代のコーチとして活動していた吉永一明さん(現・アルビレックス新潟シンガポール監督)は、橋川監督についての思い出を話してくれました。
「最初のころ、彼は当時まだ大学院生で、修士論文を福岡で書き、子どもたちを指導して、また大学のほうに行って…ということをやっていましたね。本当に、佐賀の方言も残るような、格好をつけずにしゃべっていく。子どもたちにとっては本当に気さくなコーチだったんじゃないかなと思います」

吉永さんも橋川監督も10年ほど、福岡で指導者として活動。その後、吉永さんはJクラブや高校での指導、アルビレックス新潟では監督を務めました。吉永さんは「指導者の哲学というか、考え方。自分が本当に大事にしているものをしっかりと持ってそれを表現できる指導者は、すごく強みがある」と話します。
その後、様々な指導者と関わった橋川監督が自身の“哲学”をさらに深めるのはFC今治に移った後。そこには、元日本代表監督の岡田武史さんがいたのです。