(ブルームバーグ):シンガポールでは年に数回、東南アジア諸国の医療専門家十数人が1週間にわたり、人の排せつ物を調べる。マンホールからくみ出した下水をシンガポール環境当局の無菌実験室に持ち帰り、病原体の有無を調査する。
この研修会はデューク-NUS医科大学院が主催。参加者は、ウイルスの存在を示す可能性のある遺伝物質を抽出する方法を学ぶ。同大学院は米デューク大学とシンガポール国立大学(NUS)の提携から生まれ、感染症研究におけるリーダー的存在だ。
研修会は感染症の発生を見極め、流行する前に封じ込める方法を東南アジアの科学者に習得させることが目的。1週間の研修を終了した参加者たちは帰国後、そこで得た知識を同僚に伝える。「この研修は、将来のパンデミック(感染症の世界的大流行)に備える有能な人材を各国が育成する助けになる」と、デューク-NUS感染症対策センターの疫学者ビンセント・パン氏は語る。
新型コロナウイルス感染症対策から学んだ教訓の一つは、病原体の早期検出、堅固な検査体制、効率的な情報共有、そして迅速かつ連携の取れた対応の必要性だ。だが公衆衛生上の緊急事態から脱却してわずか2年で、こうした取り組みは時代にそぐわなくなりつつあるようだ。
欧州諸国が対外援助の縮小に動いているほか、トランプ政権は米国際開発局(USAID)の実質的な閉鎖により、世界各地の保健関連プロジェクト数千件への資金供給を事実上停止した。そうしたプロジェクトには疾病監視やモニタリングを支援するプログラムが多く含まれていた。
「世界で200億-500億ドル(約2兆9200億-約7兆3000億円)規模の保健投資が失われようとしており、誰もその穴を埋められない」と、ロックフェラー財団の保健担当バイスプレジデント、マニシャ・ビンゲ氏は指摘する。
ノウハウ広める計画
インドやブラジルなどでは農村部や保健サービスが行き届いていない都市部の地域を中心に長年、臨床検査の能力が限られ、病原体拡散を検知する専門知識も欠如してきた。コロナ流行期には多くの国が下水監視を試験的に行ったが、今も継続的に実施しているのはシンガポールなどごくわずかだ。同国はこのノウハウを、研修プログラムを通じて他国に広める計画だ。
世界保健機関(WHO)は、こうしたシンガポールの取り組みが、感染症の検出・予防に向けた世界的な体制構築というWHOの方針を後押しすると評価する。2023年には、各国の公衆衛生専門家による対応強化を目的に、テクノロジーと情報共有に重点を置いた病原体監視プログラムを始めた。
「世界的なネットワークも重要だが、地域のネットワークも大切だ」と、同プログラムの責任者ホセフィーナ・カンポス氏は述べている。
もっとも、シンガポールの下水監視研修は、他国の利益のためだけではない。公衆衛生制度が優れている同国の平均寿命はこの地域の平均より約10年長い。現地で発生する感染症の流行はほぼ封じ込めてきたものの、海外から持ち込まれる病原体には依然として脆弱(ぜいじゃく)だ。シンガポールは国際的な交通の要所で、労働力や物資も外国に依存する。同国には利用者数で世界有数の空港があり、住民の3割は外国人だ。
貧富の差埋める手段
公衆衛生の推進者は下水監視について、従来の検査方法よりはるかにコストが低いため、裕福な地区と貧困地区の医療分野の質の格差を縮める理想的手段だと指摘する。
例えばこうした地域では新型コロナの検査キットが1回当たり20ドル以上することもある一方、地区全体の下水を調べる費用は40ドル未満で済む場合もある。インドで下水監視プログラム導入を政府に働きかけている非営利団体スワスティのアンジェラ・チャウドゥリ最高経営責任者(CEO)は「下水から得られる情報は、貧しい人たちを置き去りにしない。まさに公平だ」と語る。
だが、容易に見えても実行は難しいことが判明しつつある。シンガポールは500カ所以上で下水監視が可能だが、多くの近隣諸国では、一部地域で基本的な下水処理設備すら整っていない。
さらに、域内パートナーが感染症対策を自ら担えるよう技術支援をするシンガポールの方針も、資金面で困難を伴う恐れがある。シンガポールの1人当たりの国内総生産(GDP)は世界屈指の高水準だが、大規模な対外資金援助の実績はない。
コロナ禍以降、域内政府は国境紛争や貿易摩擦、失業問題など、より差し迫った課題に重点を移してきた。さらに米国が、数億人の子どもに予防接種を行ってきたワクチン計画への数十億ドル規模の資金拠出を停止したことで、はしかや肝炎のワクチン確保が、次のパンデミックへの備えより喫緊の課題となっている。
インドネシアで新型コロナの監視に携わった疫学者ビッカ・オクタリア氏は「他にも競合するプログラムが多数ある。政府財源は非常に限られており、持続可能な形にしなければならない」と語った。
(原文は「ブルームバーグ・ビジネスウィーク」誌に掲載)
原題:Singapore Disease Testing Helps Fill Gap Left by US Funding Cuts(抜粋)
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