体感物価の下方硬直性
そこで考えたのは、心理バイアスである。消費者心理を考えるとき、私たちは個別の物価が下がったときは、それをメリットとして感じにくい。逆に物価が上がっていると、それを強くデメリットとして感じる。この理屈は、行動ファイナンス(プロスペクト理論)で知られている損失回避性と同じである。人の心理は、儲けるよりも損する方に大きく反応する。物価の体感温度も同様に、どれだけ個別の品目で上がっているかをピックアップして、全体像を描いているのだろう。そして、下がっている品目の動きは無視される傾向がある。これが上方バイアスを生むのである。
伝統的なケインズ経済学では、賃金・価格の下方硬直性が言われた。一度上がった物価に対する印象は、その後に下がってもあまり重視されない。この原理は、下方硬直的な体感物価を形成する。インフレ期待は、一度火がつくと消えにくいのは、この性格があるからだろう。
賃上げはどうなるか?
黒田総裁時代(初期)の日銀は、期待インフレ率を押し上げるために、インフレ目標を2%を安定的に上回るという縛りを金融政策にかけた。ところが、当初は「なぜ、インフレ期待が物価を押し上げるのか?」という説明はなかった。日銀は次第に賃上げを重視し始めて、労働組合などのインフレ期待が高まると賃上げ率が高まり、好循環をつくって、物価トレンドを形成するものだとロジックを変えた。確かに、このロジックならば、筆者も納得してよい。
ところで、そのときのインフレ期待とは、何を指すのだろうか。厳密に考えると、消費者物価やマーケットデータから算出される「期待インフレ率」(BEI)だけではないだろう。むしろ、生活者の体感温度に沿ったインフレ期待の方が大きく反映される可能性がある。つまり、労働組合が賃上げを要求するときは、生活給思想に基づき、体感される物価上昇分くらいは賃上げ率を欲しいと考えるのである。
ならば、賃上げ率はやや過大に要求されてしまい、実際の物価上昇率以上の賃上げになってしまうはずだ。2024年の賃上げ率は、定期昇給を含めて5.10%、ベースアップ率で3.56%(連合最終集計)であった。2025年も、連合は定期昇給を含めて5%以上、中小企業については6%以上を要求する構えである。この数字は、体感温度の物価上昇率ほどではないが、消費者物価の実績よりは少し高い。やはり、高めのインフレ期待が織り込まれている可能性がある。
さて、2025年の春闘は、どのくらいで妥結するのであろうか。筆者は、4%台のどこかだろうと予想するが、もしかすると4%台では低すぎる可能性も否めない。2024年の春闘予想は、事前にはかなり低くみてしまっていた。2025年も予想外に高い数字になるシナリオも念頭に置いておいた方がよいかもしれない。
(※情報提供、記事執筆:第一生命経済研究所 経済調査部 首席エコノミスト 熊野 英生)