「犠牲の上に…」はとても失礼
Q.怒りの矛先は園や榛原学園だと思いますが、静岡県や牧之原市など行政に対する怒りはありますか?
県に関しては、県の職員の方も何度かうちに来ていただいたことがあるんですけれども、例えば、県知事の発言の中で、昨年の『水』という言葉に関連づけて、うちの娘が「体内から水分が全部なくなって亡くなった」っていったような表現をされたりとか(※注=川勝平太知事が2022年12月の会見で、記者から今年の漢字を問われ「水」と答えた中で、事件に触れ『いたいけな子供さんが熱気の中で、ある意味、水分を全部体内から吸収されてお亡くなりになりました。それもある意味で広い意味で水に関係している』と発言、その後、謝罪)そういったことは、すごくこう、なぜそういうことをいってしまうのかなっていう怒りもありますし。
署名活動を行って、廃園っていう動きにできるかという問い合わせもしたりしたんですけれども、それに関しては、なかなか私立の法人っていうことで難しい部分があるようですし、そういったこう、部分というか、そういうやり取りはしている。
市に関してはこの事件の翌日に、私たちは特に呼んではいないんですけれども、市長ほか2名の方が夜中、自宅に来て、「委託保育園のサインをさせた」とわたしたちに紙も見せていっていたので、それがいま動けないっていうのは、何かこう、やり方に不備があったりとか、契約内容に漏れがあったりとか、いう部分があるのかなっていうのは、ちょっとうまくいってないんじゃないかっていう部分はありますね。
例えば、書類に関しても、契約ですね、市と榛原学園の契約に関しても、他の市の同じような内容をなぞって作った契約書もあるみたいで、それに関しては、例えば委託したけど、やはり不備があったようなので、それに関しては、もう少しいろんなことを想定して作るべきだったんじゃないかなって思うことはあります。
Q2021年の福岡県の事故の際に国が動いていれば、千奈ちゃんは亡くならなかったという思いはありますか?
少しこう、国に対してではなくて、例えば、2021年の遺族の方だったり、2007年にも同じような事件があって、同じ遺族の方に「その子が犠牲になった後に対策をしてくれたら私たちの子どもは助かった」っていうのは、その人たちにとってもすごい失礼だと思うし、いえない部分がありますよね。
で、やっぱりこう、ルールとか、法律ってものは、不備がないように作ったと思っても、どこかで不備が出てきたりとか、それでこう、対応していくことが仕事でもそうですけど、当たり前だと思うんですけど、それが誰かの犠牲の上で法律とかが動いているんだな、改正されているんだなっていうのは強く感じましたね。
いままではニュースなどで、例えば、あおり運転とか、そういうものも大きな被害が出てから、誰かが犠牲になってから、法が改正されたりとか、ルールが厳罰化されたりとかしますけれども、そうですね、やはりこう、その時は自分たちも、他人事としてニュースを見ていた部分もありますので難しいですね。
ちょっとこう、難しいですね、いいづらいといいますか、自分の語彙力が足りなくて、うまく伝わらないかもしれないですけど、そうですね、こう、娘が犠牲になって、安全装置義務化になってという動きで、そういったこう、誰かの犠牲の上で、いままでも普通に生活が成り立ってたんだなとあったんだなと、実感しましたね、はい。