◆弱き者たちの心理に立つべき
政府が「刑事事件ではない」と関わろうとせず、世間からは「証拠を出せ」という声も聞こえてきます。しかし、児童虐待の場合、被害の証拠を持っていることの方がレアケースだということに、冷静に気づいてほしいですね。「上位に立つ者の理屈」でものを語るのはいかがなものかと私は思います。
あと「相手は亡くなっていますよ」と言う人が必ず出てくるんですが、存命中には呪縛で言えなかったという、弱き者たちの心理に立って想像する、そういうエンパシー(共感)が必要ではないでしょうか。
「法律にのっとって証拠を出せ」と訴える人にも言いたい。そもそも今の法律が100%完璧なのでしょうか? 法律というものは永遠に微調整を加えていく必要がある、そういう集合知です。だからこそ立法府で法律にいろいろ改正も加えているわけです。法律には常に変える余地があるととらえておく必要があると思いますね。
◆「『才能があるから仕方ない』は大間違い」
服部さんの会見の中で印象的な言葉があります。
“あの時の異常な様子は忘れられない。彼は非常な合理主義者で使える特権を手にし、自由に処理したかった。(ジャニー氏を)ある種の星の下に産まれた天才という人もいるが、『才能があるから仕方ない』は大間違い。悪いことは悪い。”
確かに、ジャニーさんが芸能界で天才として扱われてきたことは、国民の常識のようになっているかもしれません。しかしだからこそ、うやむやになってしまってきたということを踏まえて「『才能があるから仕方ない』は大間違い」だと言っているのです。
これは芸能界に限ったことではないと思います。スポーツ、あるいは宗教の場においても、やっぱり「指導する人、される人」「世に送り出す人、送り出される人」という、立場がはっきりしている場では起こりやすいことなのかもしれません。残念なことですが。
でも、そういう特別な世界だからといって、子供たちへの虐待を免責していいはずはありません。「ジャニーさんは天才だから。私は尊敬しています」という考え方は、免責に加担しているということを猛烈に自覚すべきです。
とくに、エンタメの世界の責任ある立場の人たちが、ジャニーさんを「天才、天才」と褒めそやすのは、断言はしませんが、彼が行ったかもしれない、これほど多くの告発者が出た限りなく可能性が高い悪行に対して、ウォッシュをかける、つまり漂白してしまうんです。







