「スタートラインに立てたことが嬉しいし、東京世界陸上に出場できたこと自体が自分の中で奇跡みたいなもの」東京世界陸上の女子100メートルハードルの予選が終わった後、この競技の日本記録保持者である福部真子がテレビのインタビューで語った。福部が起こしたいくつもの奇跡を振り返る。

広島皆実高時代には広島県勢初のインターハイ3連覇を達成し、天才ハードラーとして注目された福部。ちょうどこの年に東京オリンピックの開催が決まり「逃しちゃいけない」と、一生に一度あるかないかの日本でのビッグイベント出場を目標に、日本体育大学に進学し競技を続けた。

大学でもそのままトップを突き進むと思われた福部でしたが、引退を覚悟するほどのスランプが襲う。自信をなくしながらも「もっともっと努力したらきっと復活できる」と自分を奮い立たせ走り続けた大学生活。その時間がなかったら今がなかったと話し「最悪であり最高であった大学生活」と振り返る4年間を過ごした。一度は大学で競技引退を考えた福部の「もう一度、トップを走りたい」という熱い思いの支援に名乗り出たのが、現在所属している日本建設工業だった。この出会いもひとつの奇跡だった。もともとアスリート採用をしていなかった日本建設工業だが、アスリート採用の募集を始めたとき、面接を受けに来たのが福部。エントリーシートに記載された希望の業種に『化粧品』『洋服』といった他業種のことが書かれていたが、最終面接で福部が発した「私が会社の名前が書かれたユニフォームで活躍して有名にします」と力強い言葉で採用が決まった。

実業団ランナーとして東京で活動を続けた福部は、都内の公園にある陸上トラックで練習するなど、自ら練習環境を探しながら、日本記録更新と東京オリンピックを目指した。そんな中、新型コロナウイルスの影響で練習拠点が使用禁止となり、一般開放されている公園で練習を続ける日々を過ごす。その公園にも多くの選手が集まり、思うように練習が出来なくなったことで家の中でのトレーニングが増えた。

福部が練習拠点を東京から現在の広島へ移したのは2021年。「中学校時代や高校時代は持っている力の100パーセントぐらいは出せていたので、そういう自分に戻れたら」と、もう一度輝きを取り戻すためには地元で再出発をきることが必要だと考えた。所属する日本建設工業は広島に支店のない会社ではあったが福部の意志を尊重し、拠点の変更を許可した。この決断が天才と呼ばれたハードラーが復活するまでの奇跡へとつながる。

中学時代や高校時代の指導者のサポートを受けるだけでなく、新たにコーチやトレーナーとの出会いもあり、福部のスピードとハードル技術は広島の環境で一段と向上。自己ベストを次々と更新していく。目標にしていた東京オリンピックの出場こそ逃すも、翌年は日本選手権で初優勝。アメリカのユージーンで開催された世界陸上に出場すると、準決勝の舞台で12秒82をマークし日本新記録を樹立。さらに帰国後の大会でも12秒73と日本記録をさらに0.09秒更新し、翌年ハンガリーで開催される世界陸上への参加標準記録も突破した。このとき福部が見据えていたのは、日本人初のオリンピックでのファイナリストだった。

2年後、パリオリンピックに出場した福部は準決勝で12秒89のタイムで組5着。目標にしていた決勝進出は叶わなず、悔し涙を流したが「ハードル人生で最高の12秒間」とレースを振り返った。パリオリンピックを終えた福部は世界と戦えるハードラーへ成長するため、アジア記録12秒44の更新を目標に再スタートを切る。しかし、その矢先彼女を襲ったのがリンパ節が腫れて高熱が出る『菊池病』。原因不明の病に「競技を続けられるのか」と先が見えない日々を過ごした。

繰り返す発熱で思うように練習が出来ず、もう一度世界と戦うことが出来るか不安になりながらも、練習量を減らしたりメニューを変えたり、コーチとトレーナーと相談しながら出来ることを積み重ねた。練習量が減ったことで本気で1本走ると回復に時間がかかった。4月になっても高熱に繰り返し悩まされ、今シーズン初戦と考えていた織田記念陸上を体調不良で欠場。その後もアジア選手権を辞退するなど大会の欠場が続いた。そのため、世界陸上に出場するための指標のひとつ『ワールドランキング』も上げられず、残り少ないチャンスで参加標準記録12秒73を突破することが世界陸上出場へ必要だった。

福部の今シーズン2戦目となったのが世界陸上代表選考会を兼ねた7月の日本選手権。今年初めて2日間で3レース走る大会で身体への負担とコンディションが心配されるなか結果は3位。満身創痍で決勝を駆け抜け世界陸上出場へ希望をつないだ。この結果を受け8月に出場を予定する3つの大会いずれかで参加標準記録を突破すれば東京世界陸上が見えてきた。しかし、福部はまだ発熱を繰り返すコンディションで脚の状態にも不安を抱えていたため全ての大会に出場出来るかも分からなかった。さらに福部を不幸が襲う。

8月3日の大会で激しく転倒し、打撲と擦り傷を負う。走りに影響するほどの傷で治療のため3日間練習が出来なかった。調整不足で8月9日の大会に挑んだ福部。最後の大会に参加標準記録突破を持ち越すと気象状況などで不透明なことが多くなる。「ここで決めたい」と意気込みレースに臨むも記録は12秒74と参加標準記録まであと0・01秒届かなかった。コンディションが悪い中でクリア出来なかったタイムが表示されると、福部はしばらく立ち上がれず涙を流した。

泣いても笑っても東京世界陸上出場へラストチャンスとなった9月16日の大会。前回は調整不足の中で好記録が出たこともあり勝算があった。追い風1・4メートルにも背中を押され福部は12秒73でゴール。世界陸上参加標準記録をギリギリでクリアし、渾身の笑顔を見せた。

東京世界陸上2日目。滑り込みで代表の切符をつかみ取った福部だが、国立競技場にはたくさんの友人が応援グッズを手に駆けつけた。誰に聞いても福部の出場を信じてチケットは事前に購入し、「病と闘いながら世界陸上の出場権を獲得する」という奇跡を信じてこの日を迎えていた。奇跡を起こした福部は、これまで受けたことがないほどの大声援を受け世界陸上の予選のスタートラインに立った。そして、その応援を力に12秒92の記録で準決勝進出を勝ち取った。

翌日の準決勝は予選を超える大声援の中で走った福部。最初のスタートは良いスタートを切ったかに見えたがフライングの選手が出て走り直しに、2度スタートを切ることとなった準決勝の記録は13秒06と本来の走りが出来ず目標にしていた決勝進出を逃したが、ゴール直後に国立競技場を埋め尽くした観客の温かい拍手が、悔しい結果に終わったはずの福部の表情を笑顔に変えた。病気と闘いながら諦めず走り続けたことで、滑り込みで出場権をつかん東京世界陸上。オリンピックや他の主要大会でも味わうことがなかった大声援を肌で感じた福部。この経験が次の奇跡への原動力となる。