うるま市の宮森小学校にアメリカ軍のジェット機が墜落してから、きょうで63年となります。

平良嘉男さん
「当時私2年生でした。火の粉をあげて生き延びた人間のひとりです。」

宮森小学校では30日に遺族らによって犠牲者を追悼する慰霊祭が行われました。

平良嘉男さん
「この辺に中庭があって仲間たちと遊んで野球か何かをしていた。始業のベルが鳴って中庭から走って、あの光景をかけつけた父と母と三名で見ていますね」

宮森小学校に当時テスト飛行中だったアメリカ軍機が墜落したのはミルク給食の時間が始まろうとしたその時でした。

平良嘉男さん
「向こう東恩納の付近からですね、火花を散らかして来よったんですよ。火花を散らかしてきて、そこまで飛んできたらちょうど民間の家の上あたりで分解してですね、バーッと燃えたんですよ」

この事故で児童ら18人が犠牲となり、多くの尊い命が奪われました。当時、空襲に備えた訓練が行われていた宮森小で起きたこの悲惨な事故は、幼い心に深い傷を残しました。

平良嘉男さん
「しばらくは掃除時間にバケツの音が。誤って落としたりしますね。その音でびくっとしたりしましたね。また来たのか、落ちたのかという感じ。そういったトラウマを抱えながら子どもたちが過ごしていた。」

事故による重軽傷者の数はおよそ200人と言われていますが、それ以外にもトラウマや後遺症に悩まされている人や見た目に残る火傷の跡を隠し続けている人が多くいるといいます。また地域では事故について話すことが長年タブー視されていました。

Q遺族の方もそうですし、地域でそういう話っていうのは
平良嘉男さん
「語らないと思いますよ。語らなかったと思いますよ。私でさえ50歳前後ですか、語らなきゃいけないという思いになったくらいですから。まだ語れない方もいらっしゃるんじゃないですかね。」

事故から49年を迎えた2008年、当時教師をしていた平良さんは校長として宮森小に戻ってきました。

平良嘉男さん
「(学校長になったとき)その時誓ったのが語ろうね、という話だった。その時に語り始めたんです。」

赴任をきっかけに当時の体験者の聞き取り始め、遺族の家も訪ねました。

平良嘉男さん
「あの事故さえなければこのように社会人になって仕事にもついて家庭ももってという思いが保護者の胸のうちにはありましたよね。」

当時の悲惨な出来事を語り継ぐ、その目標を掲げ、平良さんも立ち上げに携わった「石川・宮森630会」。今月、会のメンバーが宮森小学校で当時の記憶を話しました。

石川・宮森630会 伊波洋正さん
「宮森の人たちは最初ジェット機が墜落したと分からないんだ。誰もわからなかった。何が起こったと思うかというと、「戦争だー」と思ったと。」

自分たちが学ぶこの学校で起きた事故。当時の状況を聞いた児童は。

話を聞いた児童
「亡くなった人の亡くなる前の話がちょっと心に残ってちょっと悲しくて泣きそうになったこともありました。」

事故から63年が経ったいま、悲惨な記憶を語り継ぐ人たちの願うこととはー

平良嘉男さん
「命と平和の尊さ。沖縄だからこそ分かる、理解できると思う。だからそれを伝えていきたい。仲間に誓ったことですので。歩けるまでは続けていくつもりですね。」