「空から雲が下りてきた」ー灰を被った母親は腹が膨れ2年後に死亡した


殺人兵器として研究されていた放射性物質は長崎でどこまで広がったのか?
長崎市香焼で写された写真からは、少なくとも5キロ以上に広がる原子雲が確認できます。

長崎平和推進協会 写真資料調査部会 松田斉 部会長:
「原子雲の噴煙の様なものが5キロ位の範囲には広がっていると、この写真からは言える」

原子雲は風に流され、午後2時頃には普賢岳付近にかかっていたと記録されています。

当時、南有馬にいた松永麟蔵さんの母親は「空から雲が降りてきた」と言っていたそうです。

松永麟蔵さん:
「灰色の雲をお袋はかぶっとるから。気味悪くなって早く上がってきたっぞって言いよったとは覚えてますね。2年位してからね(死亡した)。がんだったんだろうと思います。腹の張ってぶくぶくしとったもん」
50キロ先の天草にもー

ことしの夏、被爆体験者らでつくる「長崎被爆地域拡大協議会」は放射性物質の行方を追って当時の風下、熊本県天草に渡りました。

天草では、当時子供だったたくさんの人が空高く上がった原子雲を覚えていました。

岡崎秀子さん(87):
「あんまり音が大きかったもんだから、あー(天草市の)城山に落ちたばいって言ってみんな外に出たんですよ。そしたらね落下傘雲がねもくもくと(上がっていた)」

「雲見た、僕実際見た小学3年生だったから」

福田勲さん(85):
「…道路のあっですもん。そこまで走って行って見たんです。音がひどかったけん。雲のあるくらいまで(上がった)」

上天草市に住む福田義人さんは、母親から原爆の『灰』の話を聞いていました。

福田義人さん(80):
「お縁が真っ白だったもんなーって(母が言っていた)灰が降ったわけ。灰でお縁が真っ白だったもんなーと。この頃でしょ黒い雨の問題とか灰とか、全然(気にしてなかった)…灰の積もったもんなーって」
爆心地から50キロ離れた天草まで飛んでいたとみられる灰ー。被爆体験者達がいたのは12キロ圏内です。
軍事研究の中で隠されてきた内部被ばくを訴える長崎の声が続いています。

諌早や大村、島原半島で雨や灰にあった方はぜひNBCまで証言をお寄せください。

NBC報道制作部 メール hodo@nbc-nagasaki.co.jp