シリーズ企画「長崎大水害から40年」です。
24人の犠牲者を出した長崎市の奥山地区で検視にあたった医師と、自主防災組織で活動してきた住民の証言から"水害の脅威"について考えます。

■ 検死の中で感じた”水害の脅威と命の儚さ”


中島川水系の川が流れ、緑の山に囲まれている長崎市の本河内奥山地区。

ウグイスの鳴き声(ホホホホ、ホケキョ)

瀬戸口さん「ウグイスが鳴いてるね」


長崎市の医師、瀬戸口 智彦さんは、40年前の長崎大水害をきっかけに、自然豊かなこの奥山に足を運ぶことになりました。

瀬戸口さん「今でこそ、きれいなあれ(景色)だけどね。当時はもう…それこそ山が爪で剥がれたようにね、こうはがれていたから。自然が猛威を振るったんじゃないですか」


えぐり取られた山肌が奥山での被害の大きさを物語っています。
崩落を引き起こしたのは、40年前の7月23日の集中豪雨でした。

NBCラジオ(1982年7月23日 午後8時台の放送音声)「長崎市など各地で川の氾濫やがけ崩れなどが発生し、生き埋めなどの災害が続発しています」
(午前2時台の放送音声)「いま入ってきた情報によりますと、これまでの死者は26人、生き埋めが183人、行方不明が79人ということです」


幅100メートル、長さ300メートルにわたって土砂崩れが起きた奥山では、流れ出した土砂に家が押しつぶされるなどして死者・行方不明者はあわせて24人にのぼりました。


瀬戸口さん「この辺ですよ。遺体をずっと並べて、検視をさせていただいたんですよね。それでだいたい1週間ぐらいかな。僕が行ったのは」


瀬戸口さんは長崎県警の依頼を受けて、この寺で遺体の検視にあたりました。
遺体の状態から死因を診断する中で、水害の脅威を実感するとともに、あることに気付きました。

瀬戸口さん「若い人で屈強な人ほど、体の損傷がひどいっていうこと。それは、自分で立ち向かおうとしてるから、それでお腹がグサッとやられてるとか、骨が折れるとか、そういうことですよね。それで弱い子供たちは、その土石流に乗っかって、水に乗っかってスーッと行って、そのまま(無傷で)溺死みたいな感じで亡くなってたんですよね。この自然の災害ってのはやっぱりもう人間の力の及ぶところじゃないですよ」

■ "何が崩れるの?" 記憶の風化で薄れる危機感

浜下さん「あれが崩れた跡。この上200メートルくらいありますかね、上からガサっと」


奥山自治会で会長を務める浜下 嘉寿雄さんは、がけ崩れ現場の近くの家で水害にあいました。そしてその翌年でした。


水害の記憶がよみがえるような雨が奥山で降りました。


雨の中メガホンで呼びかける浜下さん「大雨洪水警報に切り替わりましたので避難してください」

このとき住民への避難を呼び掛けていたのが浜下さんでした。
『水害が起きれば再び犠牲者が生まれるかもしれない』
奥山の住民を近くの中学校などに避難させ、身の安全を図る行動をとるよう呼びかけました。


浜下さん「怖かとって。命がなんとか助かったもんだから、怖いから逃げるとって。災害に遭った者にしかわからない、そういう怖さは」

奥山自治会で自主防災組織が結成されたのは大水害の翌年でした。
避難を促すサイレンは手作り。


浜下さんは防災組織の代表として、災害時の連絡網の作成や防災の啓発活動にもあたってきました。

浜下さん「二度と(災害に)遭わないようにということで、防災組織を作って、班に分けて、すぐ連絡を取れるようにして、雨降ったら避難。警報が出たら避難」

こうした自主防災組織は、長崎市では大水害の翌年に183組織、増えました。
しかし現在のカバー率はおよそ7割で、全国平均を下回っています。


浜下さんは、『水害の記憶の風化と高齢化』で地域の防災活動が衰え始めていると感じています。

浜下さん「これはもう仕様がないことですよ。やっぱり経験しとらんけんですね。(災害を知らない)若い人が "何の崩れるとや?" ってくらいのことやからね。そういう意識をもったらだめさ。自然災害に」