長崎市内の原爆被災碑銘板をたどるコーナー「被爆80年ノーモア銘板が伝える8.9」今回は現在の長崎大学医学部、当時の長崎医科大学です。

爆心地から東におよそ600メートル。

長崎市坂本一丁目、現在の長崎大学医学部の場所にあったのが長崎医科大学です。

原爆で大学の木造の建物は全壊全焼。講堂の焼け跡からは教授は教壇に、学生は座席についたままの姿の遺骨が発見されたといいます。

田吉チエさんは当時、長崎医科大学の医学生だった長男の正英さんを原爆で亡くしました。

田吉チエさんの証言「たしか11日か12日と思うんですけども、主人が焼け跡を、何かこう解剖教室の階段教室にいたというのが時間割で分かったんですよね、9日の日の勉強の過程が。だから11時ごろはたぶんあの部屋だろうと思うところに行って見たそうです。ところが、そこん所にはまだ、あと片付けしてなくて、たくさん焼けたむくろ(死体)が木の間に挟まってずーっと並んでいたそうですよ。自分の子なんて分からせんけども、また、何日かたって行ったときに、もうあらかた片付いた所にいって、小さな骨になったのがバラバラバラバラ誰の骨か分からんけど、いっぱい落ちとった時にどなたのでもいいからと行って、拾ってきましてね、それを自分の子どものアレと思って、今あのちゃんとお骨の中に納めてお祀りしているわけですけど。」

医学部のグビロが丘には原爆で亡くなった学生や職員を弔う慰霊碑が建てられています。長崎医科大学では附属病院を含め、大学関係者と学生あわせて892人が亡くなったと銘板には記されています。