船底で荷物と共に来日 寄付金を無駄にしない...
シュモーさんは、住宅建設をめざし、昭和天皇や日本の国会議員らにも手紙を書いて協力と理解を求めた他、アメリカ、プエルトリコ、メキシコ、カナダ、アラスカ、フランス、中国、日本などから4300ドルの寄付金を集めた。
当時、占領軍の事業としてなら来日も容易だったが、シュモーさんの信念がそれを許さなかった。あくまで個人として来日し家を建てるー。ようやく占領軍から日本入国の許可が下りたのは、原爆投下から4年後のことだった。

(↑写真:1949年7月22日 来日途中にハワイに寄港 右端がシュモーさん)
1949年7月17日、日本に向け、サンフランシスコを出港。

シュモーに学ぶ会 西村 宏子 代表:「(シュモーさんたちは)船底で荷物と共にやって来たって言うんですね。皆さんから預かったお金は、広島のために、長崎の人のために少しでも使わなきゃいけないんだ、ということから、一番船底の安いところに乗ってやって来た。長崎・広島の人に寄り添う心が、本当に色々なところに見てとれます」

(↑写真:1949年8月 神戸で家づくりに参加する東京の若者たちと合流)
2004年に発足した広島市の「シュモーに学ぶ会」は、シュモーさんたちについて知り、伝える活動をしている。

2024年4月、これまでに集めた写真などの展覧会を長崎市で初めて開いた。


住宅の建設には、シュモーさんたちアメリカ人だけでなく、趣旨に賛同した東京の学生や、地元の若者も参加した。
家を建てることは、平和をつくること





暑い中での不慣れな作業だったはずだが、みんなとても楽しそうなのが印象的だ。


広島と長崎、両方の家づくりに携わった故・北川正博さんは、広島で被爆し、同級生の多くを亡くした。


(↑写真:長崎の建設現場で 右から2人目が北川さん)
「シュモーに学ぶ会」の西村宏子代表は、北川さんが亡くなる前年の2017年10月に行った聞き取り調査での北川さんの話が忘れられないという。

(↑写真:2017年10月 亡くなる前年の北川正博さん)
『みんなが仲良く一緒の目的を持って作業していた。この時に思ったんだ。同級生たちは、友達は、なぜ死ななければならなかったんだろうか? こうやって今、この間まで戦争していた国の若者が仲良くできているじゃないか。こうやって一つのことを一緒にやっているじゃないか」
広島の建設現場に掲げられていたスローガンの写真が残されている。

「家を建てることによって 互いを理解し合い 平和が訪れますように」
共に汗を流し家をつくることは、平和への道筋そのものだったー。








