波静かで美しい景色が広がる七尾湾。終戦から間もない1945年8月28日、七尾港から能登島を経由し崎山半島に向かっていた民間の連絡船がアメリカ軍の機雷にふれ爆発、沈没しました。乗客・乗員合わせて28人が死亡した第二能登丸海難事故です。


七尾市に住む角三外弘さん80歳。元小学校教諭の角三さんは第二能登丸海難事故について40年近く調べてきました。「知ってる人は知ってるだけで全貌は分からなかった」と角三さんは話します。


戦後の混乱期で地元でも語られることがなかった事故。角三さんが事故の調査を始めたきっかけは1982年に行った平和展で出会った市民の一言でした。

七尾市の元小学校教諭 角三外弘さん
「会場に来ていた人が『先生たち知らないのか。七尾の海でも機雷で人がいっぱい死んでる』という話を教えてくれた。ほんならそれを調べなきゃいけないなと」

終戦から40年が経とうとしていた1983年、角三さんは小学校の教え子や県教職員組合七尾支部のメンバーらとともに住民への聞き取りを始めました。

角三外弘さん
「古き良き時代で、寺の住職さんたちは精一杯のことを過去帳に書いている。例えば鵜浦の寺ですが『帰途、第二能登丸に送られ航進中に佐波沖合寺島付近において触雷死去せるものなり』」