赤塚さんには、この和光園で忘れられない思い出があります。
(赤塚興一さん)
「中学校3年生の時、この辺にグランドがあったんです。和光園の入所者と野球の試合をすることに。入所者は土手の上から見物をしていた」

「親父がすぐ近くに来て(試合を)見ていた。自分の親父だとばれたら困る。遠くから見てくれよ、親に対する嫌悪感を持っていた」
赤塚さんは父親のことを隠すようにして生きてきました。高校卒業後、県の職員を経て市議会議員になりますが、父の存在は公にしませんでした。
結婚式にも呼んでいません。それでも、父はたびたび療養所を抜け出し、家に戻ってきました。
(赤塚興一さん)
「世間の目がある。あまり来てもらいたくない。一言だけ余計なことを言った、悔やまれてならないのは『(和光園に)早く帰れ』と言った」

「『君がそういうことを言うんだったら、首を切って死ぬ』と言われて。その頃はハンセン病に対する理解がなかった」