
(原田寿美子さん)「最期まで胎児性の患者さんを心配しながら亡くなった」
原田さんの妻・寿美子さん(81)です。水俣病の調査に奔走する原田さんを家庭で支え続けました。
(原田寿美子さん)「(水俣病を)診てしまった責任って言っていた。交通事故でも、見てしまったら知らんとは言えないだろうと」

母親が汚染された魚を食べたため、生まれながらにして症状のある胎児性水俣病。当時は「胎盤は毒を通さない」と考えられていたため、小児まひと診断され、認定されないケースもありました。
寿美子さんは、国の水俣病認定審査会に関わっていた時の夫の様子を鮮明に覚えています。
(原田寿美子さん)「(審査会の日は)顔が引きつって帰ってきた。よく患者も診ない。現場も行かない。それで否定していくって。自分は患者さんたちの顔が浮かぶと言って。すごいストレスだった」
原田さんが大切にしてきた言葉があります。

(原田寿美子さん)「権力側につかないこと。現場に行くこと。弱者の立場に立つこと。差別をしないこと。(現場に)行けばわかることって」