原爆の子の像のモデル 佐々木禎子さん
銅像のモデルになったのは、80年前、広島に住んでいた佐々木禎子さん。2歳のとき爆心地から約1.6キロ離れた自宅で被爆しました。
運動が得意で足も速かった禎子さん。被爆から9年後の1954年。小学校6年生の秋の運動会ではリレーの選手も勤めましたが、そのあと体調を崩し入院。診断は白血病、いわゆる「原爆症」でした。

苦しい闘病生活の中、一筋の光となったのが病室に届けられた千羽鶴でした。「千羽、鶴を折ったら元気になれる」という思いで禎子さんは病室で鶴を折り続けたといいます。しかし、その年の10月、禎子さんは12歳で亡くなりました。
たとえ短い間でも禎子さんに希望をもたらした千羽鶴。これを送ったのは、名古屋の愛知淑徳高校の生徒たちでした。当時の広島の新聞にも、淑徳高校の青少年赤十字団員が千羽鶴を送ったことが伝えられています(中国新聞 1955年8月4日の記事)。
