『松本を舞台に世界水準の音楽を発信する』。
「世界のオザワ」の挑戦は、今から30年以上前に始まりました。
(1991年 会見する小澤さん)「このフェスティバルはミニミニですけども小さく長くと。半永久的にやらせていただきたい。今まではどうしても外国からオーケストラが来る外国からソリストが来る(という状態だったが)日本から発信する。そういうことができるんじゃないかと」

1992年9月。小澤さんの呼びかけに応じ、世界から集まった演奏家たち。
サイトウ・キネン・フェスティバル松本の誕生です。
(小澤さん)「松本を発信地として世界に、日本にこういう高いレベルの音楽をしているのがいることを示そう」

松本の地で圧倒的な存在感を放つ小澤さん。
そのまなざしは、子どもたちにも向けられました。
(小澤さん・2002年のインタビューで)「こっちがいい音楽をやると 10人いたら、そのうちの何人かは必ず 100人いたら何人かは必ず何かを感じるらしい」

(1991年 山ノ内町で子どもたちを前に演奏)
「曲のことが分からなくても何か、生で音で聞いて生で弾いてる人の顔を見ながら聞いて 同じ空気のところでやると 生でやるっていうのがいい」
小澤さんの熱意と人柄にひかれ、音楽の祭典を支えたのが、市民ボランティアです。

(94年・小澤さん)「フェスティバルを松本で始めて良かった たぶんみんなもそういう気持ちを持ったのではないか それに加えてボランティアで市民の方たちが最大の援助をしてくれて」

ボランティアがゆでたてのソバを振舞う「そばパーティー」も恒例のイベントに。
小澤さんと市民の絆は深まっていきました。
そして、1998年の長野オリンピック開会式では世界の5大陸を結び「歓喜の歌」を指揮しました。














