ニューイヤー駅伝 in ぐんま(第68回全日本実業団対抗駅伝競走大会。群馬県庁発着の7区間100km)にパリ五輪マラソン代表2人が参戦する。10月15日のMGC(マラソン・グランドチャンピオンシップ。パリ五輪代表3枠のうち2人が決定)に2時間08分57秒で優勝した小山直城(27、Honda)と、2時間09分06秒で2位の赤﨑暁(25、九電工)。関係者には評価されていた2人だが、世間的な注目度は低かった。その2人に共通しているのは、マラソンで結果を残していたチームの先輩を追って成長したこと。ニューイヤー駅伝の2人はどんな走りが期待できるのだろうか。
Honda入社は設楽からタスキを受けたことがきっかけ
小山のHonda入社は、誠意のある勧誘を受けたこと、実家から近かったことなども理由だが、設楽悠太(32、西鉄。当時Honda)に憧れていたことも大きかった。
設楽と出会ったのは15年の全国都道府県対抗男子駅伝。1区(7.0km)、4区(5.0km)、5区(8.5km)が高校生区間で、2区(3.0km)と6区(3.0km)が中学生区間。3区(8.5km)と7区(13.0km)が学生・実業団選手と、出場できる区間が世代で決められている駅伝である。
競技歴で誇れるものは?という質問に小山は、ニューイヤー駅伝の2連勝と高校3年時の全国都道府県対抗男子駅伝の埼玉県チームでの優勝を挙げた。
「その駅伝で3区の(設楽)悠太さんからタスキを受けたことが、印象に残っています」
小山は高校3年時にインターハイ埼玉県予選で転倒し、力は十分あったのだが全国大会に出られなかった。チームも駅伝の全国大会に出られず、小山が高校時代に経験した一番大きな大会が全国都道府県対抗男子駅伝だった。Honda入社1年目の設楽からタスキを受けた小山は、4区区間賞の走りで2位から1位に浮上。埼玉県チームはそのまま逃げ切り初優勝を飾った。
東農大ではチームとしては出場できなかったが、2年時に関東学生連合チームで箱根駅伝に出場。オープン参加だが4区を区間10位相当のタイムで走った。
小山は19年にHondaに入社したが、設楽は18年にマラソン日本記録(当時)の2時間06分11秒を出していた。19年9月開催のMGCに向けての練習パートナーに小山が選ばれた。
「チーム内の他の選手は出場予定のレースがあったので、予定がなかった自分がたまたま(笑)選ばれたのかもしれません。身長が同じくらいなので、リズムを合わせやすい面はあったかもしれませんけど」。
事情はどうあれ、小山にとっては憧れの先輩である。練習は「悠太さんの7割もできなかった」が、多くのものを学ぶことができた。
「脚さばきや、接地時間の短い走り方など、動きを真似ることはできません。悠太さんはペース感覚もすごいです」
19年MGCで37km過ぎまで独走した走りも印象深いが、設楽はニューイヤー駅伝の4区でも、他の選手の存在など眼中にないように突っ走った。15、16、18年と前回まで最長区間だった4区で区間賞を獲得。小山の入社1年目の20年大会では、小山が1区区間3位、設楽も4区区間3位でHondaは3位に入賞した。
その年を最後に設楽は、故障も多くなり駅伝メンバーに入れなくなった。青木涼真(26)、伊藤達彦(25)、中山顕(26)ら若手が充実したこともあり、設楽は出場機会を求めて23年に他チームに移籍した。
小山は2年目も1区で区間5位、Hondaが初優勝した3年目は3区で区間8位。2区で23位に後退したチームを14位に引き上げ、4区以降の逆転劇への引き金となった。4年目の前回はHondaが2連覇を達成。小山はついに最長区間の4区を任され、区間3位でチームを3位からトップに引き上げた。
設楽と同じHondaの最長区間を走り、そして今年10月には、設楽ができなかったMGC優勝を達成した。尊敬する設楽からのタスキを、小山はしっかり持って走っている。