10月8日、谷村新司さんが亡くなった。29歳のときに山口百恵さんに「いい日旅立ち」を提供した早熟の才能を、音楽プロデューサー・松尾潔さんは「音楽史の傑物」と評した。
◆年間303本のライブ
先週、訃報が届いた谷村新司さんの功績を振り返ります。谷村さんは1948年(昭和23年)12月大阪生まれ。当時のいわゆる関西フォークのムーブメントに乗り、高校生のときにロック・キャンディーズを結成しました。フォークの代表的なグループ、ピーター・ポール&マリーと同じ、男性2人女性1人という構成でした。
1960年代に10代で世に出ますが、すぐに全国的な人気になったわけではありません。1970年に大阪万博が行われたとき、そこで出会ったスタッフや、同世代のミュージシャンたちとの交流が、その後の谷村新司さんを作り上げていったと言われています。
谷村さんは1971年に堀内孝雄さんとアリスを結成して、翌年にドラムのキンちゃんこと矢沢透さんが加入して3人組になり、72年にデビューします。しばらく鳴かず飛ばずの時期が続いて、1975年「今はもうだれも」でやっとヒットが出るんですが、それまではただひたすらライブをやり続けていました。
どれぐらいライブやっていたか。僕は1990年代に、ある雑誌の対談で谷村さんからそのときのことを聞かせていただいたことあるんですが、一番多い年には1年間で303本ライブをやったそうです。
◆社運を賭けた奇策のライブで大借金
なんでそんなにライブをやっていたか。きっかけは当時の所属事務所ヤングジャパンの細川社長の奇策でした。ヤングジャパンはソウルミュージック界の大物で帝王とも言われているジェームス・ブラウンの初来日コンサートを1970年の頭に企画しました。ところが、昔から名門ホールとして知られていた3000人弱ぐらい入る大阪のフェスティバルホールに、谷村さんによれば、客が150人しか入らなかったそうです。
事務所の窮余の一策で、社運をかけてやったライブで大借金。「雪だるま式に増えて、もう僕らがライブをやるしかなかったんよね」と話していました。でもそれが「最強のライブバンド」という定評を作っていって、「今はもうだれも」のヒットが出たときには、もう日本中の音楽好きやラジオ業界にシンパがたくさんいました。
その後は、「冬の稲妻」や「ジョニーの子守唄」、そして「チャンピオン」。こういった曲が次々にヒットして、78年には日本武道館3日間公演を成功させて、当時のニューミュージックシーンの頂点に立つんですね。
◆31歳の若さで「昴」をリリース
ここですでにキャリアを極めたと言ってもいいアリスなんですが、ここから谷村さんのアーティスト生命はさらに花開いていきました。それはソロ活動の充実振りなんです。作家としても山口百恵さんに「いい日旅立ち」を提供したように、彼は作品をつくる力、特に言葉の力を持った方でした。
アリス時代も「チャンピオン」の作曲もしていますが、作詞:谷村新司、作曲:堀内孝雄のゴールデンコンビがやはり彼らの肝になっていました。それをより体現するために、ソロという形式が向いていたようなところがあります。
それがよりパーソナルな度合いの高い、思いをつづった歌詞として結実したのが、1980年の「昴」です。曲の寿命とか愛され度合い、そしてタイムレスな輝きってことを考えると、ちょっと格別のステージに駆け上がっていくことになるんですね。
これを作って歌ったときの谷村さんが31歳。驚くべき早熟な才能というか、成熟したアートを生み出した人だったんだなと思います。僕はよくこういう言い方をするのですが、タイムリーでありながらタイムレスなとこにも手が届くという、本当に稀有な曲だと思いますね。
◆「いい日旅立ち」は谷村新司29歳、山口百恵19歳
谷村新司さんは言葉の力が長けた方だと言いました。もちろん歌手としても、類まれなる美声と歌唱力を持っていましたが、やはり作品を作る能力が突出していたなということでいうと、まず挙げられるのが山口百恵さんに提供した「いい日旅立ち」です。
この曲を聴くと、JR西日本の「DISCOVER WEST」シリーズの車内チャイム思い出す方も多いんじゃないでしょうか。今だに愛されているメロディーとも言えますね。作曲も谷村さんが手がけています。驚くべきこととして伝えたいのが、これを作ったときの谷村さんはまだ20代、歌った百恵さんがまだ10代だったというところです。
19歳の百恵さんに29歳の谷村さんが曲を提供して、老若男女を唸らせるという、そんなふうに日本のポップミュージックのシーンが若くして成熟していたときがあったんですね。今どきの19歳や29歳の人たちと比べると、ずいぶん大人っぽい表現だったな思います。