泥沼を農地に変えて日本の食文化を支えてきた越後平野。
戦後を過ぎて高度成長期を経る頃コメは増産時代を迎えていましたが、生産高が最高になったわずか2年後に政府は一転して『減反』を強いたのでした。
食管法で統制されたコメの価格
食管会計の赤字がかさんだため政府は、1969年に消費者の嗜好も考慮した「自主流通米制度」を発足させ、一部の良質な米に限っては政府を通さずに、農家が卸売業者などへ直接販売することを認めました。
これが『自主流通米』で、新潟の稲作農家にとってはひとつの好機となりました。
しかしコメの価格については、農林水産省の諮問機関である「米価審議会」が生産者米価と消費者米価に関する基本方針を審議。2001年に廃止されるまで続きます。
「米価審議会」の季節になると毎年、新潟などから県農協中央会をはじめ、多くの生産者の代表が上京し、自民党のいわゆる“農林族”と言われる国会議員に陳情する光景が見られました。

大票田である農家の票を取り込みたい与党や、さまざまな“補助金”制度に期待する稲作農家の思惑が交差し、二転三転する政策は「猫の目農政」と呼ばれました。