1か月 京橋の下で暮らした 「おかゆと聞いただけでも嫌い」
いま小笠原さんはひとり娘のヒロ子さん家族と一緒に暮らしています。当時のことをヒロ子さんにもよく話していると言います。
(娘の小笠原ヒロ子さん(70))「その日だけを見つめて一生懸命に生きていた、そのたくましさを母からは感じます。こういう話を自分の親から聞いたという体験談に近い話で伝えていくことも大切かなと思います」

空襲で家が焼け、約1か月の間、京橋の下で暮らしたという小笠原さん。その日を生きることで精一杯の状況で食べていたおかゆの味は、いまでも強烈に覚えていると話します。

(小笠原トシ子さん(98))「あのときにしっかりと水のようなおかゆを食べたから、おかゆと聞いただけでも嫌い。嫌い」
(娘の小笠原ヒロ子さん(70))「本当に魂に刻み込まれたんでしょうね、つらかったというのが。おかゆは体調を崩したときも嫌がります」
小笠原さんの五感に残る戦争の傷跡です。岡山空襲から78年経ったいま思うことをあらためて話してくれました。

(小笠原トシ子さん(98))「あれを受けた人(戦争を経験した人)にしか、わからない。あの惨めさは。ロシアとウクライナの戦争を聞くと、可愛そうだなと。自分たちの戦争の頃を思い出す。みんな幸せになってほしい。あんな不幸せには誰にもなってほしくない」
20歳のとき目の当たりにした焼け落ちた岡山の街。その記憶は78年もの月日が流れたいまも鮮明に刻まれていました。小笠原さんが願うのは、手を取り合い幸せを築く平和な世界です。