79年前、対馬丸に乗っていた一人で、語り部を続けてきた平良啓子さんが7月に亡くなりました。多くの子どもたちが戦争の犠牲になった事実を生涯をかけて語り続けた平良さんが私たちに託した思いを振り返ります。
生涯残る罪悪感を抱えて 語り継いできた平良さん
平良啓子さん(2011年小学校での講演)
「私のそばで、あるお母さんが『ワークゥワー、チブルワリタンドー』って方言で言うんです。方言わかりますか?『私の子どもの頭が割れた』と泣いているお母さんがいるんです」
7月に88歳で亡くなった平良啓子さん。対馬丸から生還したものとして戦後、その経験を語り続けてきました。
太平洋戦争の末期、1944年にサイパンが陥落し戦況が悪化。政府は県民を県外へ疎開させる計画を進めました。

当時国頭村にある安波国民学校の4年生だった平良さんも、兄や姉など家族と共に疎開船として準備された『対馬丸』に乗船しました。
平良啓子さん(当時87歳)
「寝ていた時にボンっと、すでに船は半分沈んでいました、燃え始めていた」
しかし対馬丸はアメリカ軍の魚雷攻撃を受け沈没。平良さんはいかだの上で6日間漂流しその後、奄美大島の住民に助けられ沖縄に戻りました。

対馬丸を生き延び、その後、地上戦を経験した平良さん。戦後、何年経っても忘れられない言葉があります。一緒に対馬丸に乗り犠牲となった、いとこの時子さんの母親から言われた言葉です。
平良啓子さん(当時87歳)
「いとこの時子が帰って来ないでしょ、時子のお母さんに言われましたよ『あんたは元気で帰ってきたね、啓子はうちの時子は太平洋に置いてきたの』って言われた。それであれから私は泣いて家に隠れて、あれから(外に)出られなかった、悲しくて今もそう思いますよ」
時子さんの母親の行き場のない怒りと悲しみ。その言葉は当時9歳だった少女の心に罪悪感として生涯残り続けました。
平良啓子さん(当時87歳)
「戦争のために一生心に傷が残っているっていうのは、こんなことじゃないですか。許せない、だから戦争というのはもう個人的な責任になってしまっている気がして辛い、悲しいですよ」