ー1945年8月15日終戦ー
これは、魚雷艇の艇長だった男性が当時の心境を書き留めた手記の一部です。
「8月13日に出撃命令が出た。それが中止になり、8月15日に終戦の詔勸を聞いた時にはまさに困惑そのものであった」

戦死者を出さずに終戦を迎えられたものの、その後、特攻の話をする魚雷艇の隊員はほとんどいなかったといいます。
(鬼束俊六さん)「これが当時、目井津海岸で特攻隊の人が記念で撮った写真でしょうね」

南郷町出身で日南市文化財審議委員の鬼束俊六さん81歳は、交流のあった隊員たちについてこう振り返ります。
(日南市文化財審議委員・鬼束俊六さん)「敗戦の責任は自分たちにあると、同僚に申し訳ないという気持ちが強くて、いろいろずっと悩んで、そういう心の痛手を持ってこられたと思うんですよね」

(記者)「あまり多くは皆さん語らなかった?」
(日南市文化財審議委員・鬼束俊六さん)「聞かなかったですね。私たちもどうだったんですかと聞くこともできなかったです。戦争の話は絶対しなかった」
そんな鬼束さんが地元の住民たちと一緒に取り組んだのが魚雷艇の石碑の再建でした。
およそ40年前、隊員らの呼びかけによって魚雷艇の石碑は、一度、南郷町内に建てられました。

しかし、その後、行政の許可を得ていなかったとして撤去され2つあった石碑のうち1つは埋設。
隊員たちの名前が掘られた名簿碑のみ長年、地元の石材店が保管していました。

隊員と交流のあった鬼束俊六さんらが、残された石碑の活用方法を模索する中、今年から再建に向けた動きが本格化。
石材店が無償で修繕を請け負うなど多くの地元住民が協力した結果、ようやく石碑の再建が実現しました。

(日南市文化財審議委員・鬼束俊六さん)「あすは出撃して死ぬかもしれないと思いながらこの地で過ごされた人たちの思いだから。そういう思いもあって、どうしても後世に残しておかなきゃいかんなと。そんな思いでみんな誇りに思ってやってくれたんじゃないですか」
今回の石碑再建にひときわ感慨深い思いを抱いているのは隊員の遺族たちです。
南郷町に暮らす前田茂さん76歳と弟の重喜さん74歳。
およそ20年前に84歳で亡くなった2人の父、繁雄さんは魚雷艇の艇長でした。

(前田重喜さん)「語り部が少なくなったでしょう。継承していってもらいたいというかね。見てもらって観光地のように。そういう人が継承してもらいたいと。ずっと忘れずに昔の戦時中のことなんかをね」

40年の月日を経て再建された魚雷艇の石碑。
(日南市文化財審議委員・鬼束俊六さん)「伝えなければ。それは私たちの責任。今私たちが生きている戦争のない平和の尊さ、それを心に決め込んで、その礎になってくれば、あれが少しでも役に立つかなと思っていますね」

地域に残る戦争の記憶をどう繋いでいくかが今、問われています。