熱さに耐えられず、防空壕を出ることに…
その頃、小林さんの自宅は富山市中心部の荒町に家がありました。自動車業を営んでいた父の守男さんが、1944年(昭和19年)に兵役に出ることになったため、富山市のはずれといわれた磯部町に引っ越したのです。その庭に父、守男さんが防空壕を掘っていました。



5歳で被災した小林紀男さん:「結構頑丈な防空壕つくってました。(父から)防空壕から絶対に出るなと、この防空壕から出たらおしまいだぞと…」

8月2日の午前0時36分。空襲警報が鳴ったため、小林さんは祖母、母、姉、親せきの人たちと防空壕に入って息をひそめていました。
富山の街は一瞬のうちに火の海となります。
5歳で被災した小林紀男さん:「防空壕の中にいたら熱かった。それで母親に手を引かれて、それで(壕を)出たのは記憶にあります」

次々と落下する焼夷弾、燃えさかる火と音、防空壕の家族は、恐怖と熱さで中にいることができず、皆で外に出たと言います。
5歳で被災した小林紀男さん:「防空壕から出てこのへんに出てきたときに、住宅が崩れ落ちるのを見ました。この辺で感じたのは、向こうからの爆風がすごいこと。火の粉が横にずっときて、途中まで(土手に)登ったけど、とても登り切れないというんで、もとに戻ったという…」
横殴りの熱風で、逃げようとした神通川に通じる土手を上がれませんでした。

