「相手を落とす」ただそれだけ

1万機あまりが生産されたゼロ戦は、終戦まで主力戦闘機として使用されます。

ゼロ戦は、機体の運搬も特徴的でした。名古屋市港区の工場で製造後、試験飛行が行われる岐阜・各務原の飛行場まで、「牛車」で夜間に運ばれていました。地方の道路は舗装も進んでいなかったため、機体が壊れないよう、人が歩くよりもゆっくりと運ばれたといいます。

(運搬を目撃した人)
「最初はシートがかぶせられているから何が運ばれているんだろうと思った。牛車の前に警察官がついて歩いているから、何か見られてはいけないものを運んでいるんだろうなと子供心に思った」

その後も敵の戦闘機を圧倒したゼロ戦に対し、アメリカ軍は徹底的にゼロ戦を研究しました。あわせて190ページに及ぶ連合軍の報告書では「ZEKE(ジーク)」と言うコードネームで、性能をはじめ長所・短所などが細かく記されています。
「ゼロ戦52型は、中高度・中速度では、どのアメリカの戦闘機より運動性が優れている」アメリカ軍は、一対一では絶対に空中戦を行わないよう徹底し、編隊飛行による攻撃などに戦術を変更しました。

復元されたゼロ戦の座席に68年ぶりに腰を下ろす、元搭乗員笠井さん。ただ目の前の敵機を撃墜することだけが生きる道であり、国のためだと考えていたと言います。
(ゼロ戦元搭乗員 笠井智一さん)
「相手を落としたるぞーと思うだけ。それ以外のことは考えません」

(記者)
「怖さは?」
(元搭乗員笠井さん)
「そんなこと考えていたら戦争できへんて」
戦況は、次第に日本が劣勢に。軽量化で防弾性能が低かったゼロ戦も、撃墜されるようになりました。そして、爆弾を抱え、敵艦に体当たりする「特攻」が始まったのです。特攻機の援護を命じられた笠井さんは、その最後を見届けていました。














