かつて日本が中国東北部に作った満洲国。77年前、そこで敗戦を迎えた155万人もの日本人が祖国に命がけで引き揚げてきました。漫画家のちばてつやさんもそんな引揚者でした。壮絶な記憶は名作「あしたのジョー」にも影響していました。
「幸せな時代に生きていることを感じて欲しい」 中国人画家が描く引揚者の苦難
3月21~26日に、長野県の満蒙開拓平和記念館で全長20メートルの絵画が展示された。
日下部正樹キャスター
「圧倒的な大作ですけども、ここに描かれているのは、満洲に住んでいた人たちが引き揚げる様子ですね。中国の葫蘆島という場所から命からがら、日本に向け引き揚げる映像がこれだけの迫力で描かれています」

作品のタイトルは「一九四六」。
日下部キャスター
「全体的にダークなトーンなんですけども、近づいてみると一人ひとりの表情が、克明に描かれています。本当に着の身着のまま日本を目指す、そんな姿が描かれています」

作者は中国の名門美術大学の教授で、画家の王希奇さんだ。
日下部キャスター
「なぜ、(満洲)開拓団の避難の様子を描こうとしたのか?そのきっかけはなんだったのでしょうか?」

王希奇さん
「2011年11月ごろ、ネットで写真を収集しているときに、一枚の写真が目に留まりました。胸元に白い布のようなものを抱えた幼い“男の子”でした」

その写真は、実は髪を短く刈った“女の子”だった。母親の遺髪を抱えていた。
王希奇さん
「その表情から、多くの苦難を経験してきたのだと感じました。さらに調べると、1946年の(中国の)年表を見ても、日本人の引き揚げについて記載されていないことが分かりました。これは全人類の苦難です。私はこの真実を明らかにしようと決意しました」
男の子のふりをしていたのは、ソ連兵に襲われないようにするためだった。

1931年、旧日本軍の謀略に端を発した満洲事変によって、日本は中国東北部を占領、満洲国がつくられた。そして国策により、多くの人たちが「満蒙開拓団」として日本から送り込まれた。
だが敗戦間際、ソ連が満洲に侵攻。155万人とも言われる日本人があてもなく逃げまどい、祖国に帰ろうと港を目指した。ソ連軍につかまり、シベリアに送られる男性もいれば、レイプされる女性もあとを絶たなかった。
24万5000人が戦闘や飢餓、集団自決などで命を落とし、多くの子どもが中国人に預けられ、残留孤児となった。
日本に占領された側の中国人でありながら、この作品に平和への思いを込めた王さん。

王希奇さん
「多くの日本人にこの作品を見ていただきたい。平和は簡単に手に入るものではなく、私たちが今、幸せな時代に生きていることを感じて欲しいのです」

絵を食い入るように見る女性がいた。女性は8歳のとき、母親と2人の妹と共に満洲から引き揚げ、父親はシベリアに抑留されたという。
――当時で一番覚えていることは何ですか?

岐阜から絵を観にきた女性(85)
「人の生と死ですね。死んだ赤ちゃんは線路の横に置き去りで、汽車は動き出す。引揚船からドボンと死体を海に放って、ぐるーっと遺体の周りを一回りもしたらお葬式は終わりだったの。喋れなかった。80過ぎまで何も、子供にも孫にも言わなかった」
――このときの体験ですか?
岐阜から絵を観にきた女性
「引き揚げの体験をね。今せきを切ったように出てくる」
――この絵を見てからですか?
岐阜から絵を観にきた女性
「そうですね。段々ね、そういうふうになってきた。喋れるもんじゃないですよ、本当に」

ようやく引揚船にたどり着いた人々の様子をとらえた貴重な写真。
ぐったりとした妹を背負い、引揚船に乗り込む女の子。両親を亡くした子供も多かった。
多くの人々が日本に帰れるようになったのは、敗戦から10か月近く経ってからだった。だが、ついに踏みしめた祖国の地でも、引揚者たちの苦難は続いた。














