78年前、渡嘉敷島では住民が自ら手りゅう弾を爆発させるなどした集団自決があり、3月27日に慰霊祭が行われました。島で慰霊祭を復活させ、戦争の実相を語り継ぐ、元村長の男性の思いを取材しました。

「世界の恒久平和を祈念してこれより1分間の黙とうを捧げます。黙とう」

3月27日、渡嘉敷島で4年ぶりに開かれた慰霊祭。波の音が届くこの場所で、遺族100人以上が集まって、戦没者に祈りを捧げました。

元渡嘉敷村長の座間味昌茂さん。村長時代、50回忌を区切りに途絶えたこの慰霊祭を復活させました。

元渡嘉敷村長 座間味昌茂さん(82)「生き残った人たちが慰霊祭をやってよかったという方が随分いた。沖縄戦がみじめなものだったことが分かるから、平和を追求するためには慰霊祭は必要だと私は思います」

1944年9月9日、渡嘉敷島に上陸したのは、日本軍でした。島の人たちは、戦闘に備える隊員を自宅に泊めたり、共に壕を掘ったりするなど交流があったといいます。

こうした中、翌年の3月27日。アメリカ軍が渡嘉敷島に上陸します。雨が降りしきる中、住民は、生活に溶け込んでいた日本軍の指示によって北山に集められます。

手元には事前に、またはその場で配られた軍の手りゅう弾があったといいます。

元村長 座間味さん「この焼け野原になった山を、よく裸足で歩いたなと。手を引っ張られて、ここで私が一番覚えているのが、金平糖を食べたのを非常に強烈に覚えている。甘い味」
Q最期だから食べた?
「そういうことです」

翌日、アメリカ軍の迫撃砲が轟く混乱の中、手榴弾を爆発させたり、縄で首を絞めたりして住民およそ330人が自ら命を絶ちました。

集団自決です。