交通を阻んだもの

被災者に降りかかる冷たい雨はすぐに濁流となった

奥丹後地震で被災者を苦しめたのは、火災とは対照的に雨と雪でした。地震直後から降り続いた雪まじりの冷たい雨は、ガレキで堰き止められた川から溢れ出て、町に流れ込み、濁流となって家々を飲み込みました。

鉄道と道路はまるで使えなくなった

また強い揺れで線路はゆがみ、道路は陥没し、外部から通常の救助隊が入ることができません。当時の軍隊が投入され、被災者の救護にあたったといいます。
この姿もまた阪神淡路の様子や、トルコの現状に似ています。

陸軍と海軍(当時)が被災者救援にあたったことが連日報じられた

「最初の被災者救援キャンペーン」

この地震は、関東大震災の直後であり、なおかつ1925年には北但馬地震も起きたことから、新聞社などによる被災者救援キャンペーンが盛んに行われました。
被災者は厳寒の中、冷たい雨のそぼ降る屋外に投げ出され、その様子を新聞やニュース映画が描き、募金活動などが行われました。

直下型地震は木造家屋をあたかも爆弾でも落ちたかのように破壊しました(手前)、よく見ると焼け跡ではありません

「最初の被災者救援キャンペーン」が行われたこと、また、この地震は、関東大震災後に地震への防災意識が高まっていたときに起きたことで、地震への研究と、その研究が大いに進んだきっかけとなったと言われています。
さらに災害復旧の際の区画整理が本格的に行われたのも、この地震以降でした。